大河ドラマ真田丸の時代情勢を俯瞰で振り返ります。
大坂冬の陣の全貌を解説していきます。
大坂城の最前線に真田丸を築く
真田信繁はまず200弱の手勢と共に大坂城に入った。従ったのは、共に九度山蟄居に耐えた上田以来の家臣・高梨内記、青柳清庵、高梨采女、青柳千弥、三井豊前らを頭とする九度山周辺の地侍、鉄砲自慢の猟師など紀州勢だった。
信繁は上田の旧臣にも大坂参陣を呼びかけた。これに応じた1人に、長女・すへの伯父で育ての親の堀田作兵衛がいる。作兵衛は国元に妻子を残したまま大坂に馳せ参じて夏の陣で戦死するが、妻子はのちに厳しい詮議を受けて処刑された。このほか、本家筋の真田信綱(長篠合戦で戦死)と正妻・於キタの子、真田与右衛門や真田源八郎などの親族もいた。
大坂城に籠る10万の兵が君主と仰ぐのは豊臣秀頼、総司令官は秀頼側近の大野治長である。大名格の信繁は長宗我部盛親、毛利勝永とともに三人衆と呼ばれ、元陪臣ながら勇将として名高い後藤又兵衛、明石全登らも参陣している。
入城後、信繁はある風聞を耳にする。
信繁は第二次上田合戦で徳川秀忠軍を撃破したが、あれは父・昌幸の親がかりだったからで、兄の信之、叔父・信尹は徳川に奉公しているから、本当の味方なのかわからない、そのうち寝返るのではないか──。
そんな疑念を持たれているというのだ。これは信繁には許しがたいことだった。信繁が大坂城惣構の玉造口の外に『真田丸』を築き、その守備に就いて敵の攻撃を一手に引き受けたのは、この疑念を晴らすためだったとも見られている。
この真田丸は、実は信繁が更地から築いたものではない。開戦必至と見るや、大坂城では急遽出城や砦など防衛力強化のための普請が始まる。最初に玉造口に目をつけたのは又兵衛で、出城を築くべく縄張りを進め、材木を集めていた。ところが城の周辺を巡って出丸を造るならここ、と見定めた信繁が材木を運び出して縄張りをやり直し、たちまち真田丸を築き上げたのだ。又兵衛は激怒し、大野治長に抗議したが、長宗我部・毛利・信繁の三人衆に、又兵衛と明石全登を加えて五人衆にすることで一件落着する。
奇襲作戦を提案
慶長16(1614)年10月中旬、大坂城で軍議が開かれ、信繁は父・昌幸譲りの奇襲作戦を提案する。
まず、信繁と又兵衛が1~2万の兵を率いて宇治、瀬田を占領し、瀬田橋を焼き、舟を破壊して徳川軍を迎え撃つ。その後、大野治長か木村重成が京都を攻め、明石・長宗我部軍が大和口を押さえる。そして豊臣家の精鋭部隊・七手衆が大津に出張り柵や土居を築くべきだ──。
これには治長が反対し、徳川方の密偵・小幡景憲も「源平の昔から宇治、瀬田での防衛戦に勝ったためしはない」と反対する。結局、信繁の奇襲作戦は退けられ、消極策の大坂城籠城と決まった。
12月4日、徳川家康が大坂城南西の茶臼山、将軍・秀忠が城南東の岡山の本陣に入った。そしてこの日、大坂冬の陣の火蓋が切って落とされる。
徳川方はすでに木津川砦・五分一砦・野田砦などを次々におとして大坂湾岸や木津川、大和川河口を制圧、豊臣方の補給路を断っており、さらに50万の大軍で大坂城を完全に包囲している。
そんな中、信繁が采配をとる真田丸では信繁の譜代衆、紀州衆、秀頼から預けられた豊臣家臣や牢人など総勢6千が守りを固め、黄母衣衆の伊木遠雄らも御目付衆(軍監)として、これに加わっている。
真田丸の櫓には、黒い信繁の馬印が翻っていた。
徳川軍の猛攻を撃退!
真田丸の正面に陣取るのは、前田利常・榊原康勝・井伊直孝・越前松平忠直・藤堂高虎などの軍勢。真田丸と前田軍の先手の間ではすでに鉄砲での競り合いが始まっていた。
両軍の間に小高い篠山があり、真田兵がここに柵を作って身を潜め、盛んに鉄砲を撃ちかけてくる。前田軍も応戦するが、真田兵の銃撃は執拗で正確無比だった。前田軍は手を焼き、「今に目に物見せてくれる」と歯噛みしていた。
12月4日の夜明け前──。前田軍の先手が篠山を急襲する。だが、そこに真田兵の姿はない。あっけなく制圧した前田軍は勢い余って夜明けとともに一気に真田丸に攻め寄せる。戦功に逸る利常の小姓たちも、主君の許しを得ずに数騎が前に乗り出した。驚いた馬廻衆が本陣の旗の動きで判断しようとすると、旗が動いたように見えた。馬廻衆も色めき立ち、突撃を始める。
一方、井伊・越前松平・藤堂などの軍勢も夜半のうちに真田丸や惣構に接近、堀に下りて柵を壊し、攻め込む隙を狙っている。
夜が明け、真田勢が出丸の空堀を覗くと、数百の寄せ手がうごめいていた。すかさず真田勢が銃撃し、1人残らず射殺する。これを機に、徳川・豊臣両軍の激突が始まるが、前田・井伊・越前松平軍の猛攻に対する真田丸からの反撃はすさまじく、敵がひるむと信繁自らが出撃、劣勢になると撤退を繰り返して敵を撹乱した。そのため徳川軍の戦線は大混乱に陥り、ついに大敗。信繁の武名を一気に高めることになった。
だが徳川方には秘策があった。
城方の内通者が城門を開き、手引きする手はずになっていた。折しも惣構の内側で火の手が上がった。内通者の狼煙に違いない──。
惣構の一部に接近していた大軍が一斉に堀に突入する。ところが、この秘策はすでに城方に発覚して内通者は成敗されていた。城方は堀底の大軍に集中砲火を浴びせ、これを殲滅する。火の手が上がったのは、城方の単なる失策に過ぎなかった。
戦況の報告を聞いた家康は正午頃、撤退を命じた。そして、その後は白兵戦から大筒や石火矢による砲撃戦に転じる。これが奏功し、大坂城に最も近い備前島からの砲撃は本丸や天主にも着弾し、淀殿の居所を直撃して侍女7、8人が死亡する。強硬派の淀殿もこれには怖気づき、和睦の機運が高まった。
早速、交渉が始まり、12月18日には大坂方の常高院(淀殿実妹)と大蔵卿局、徳川方の家康側近・本多正純(正信嫡男)、阿茶局(家康側室)が、東軍・京極忠高(常高院長男)の陣所で会い、翌19日、両者は和睦の合意に達した。その結果、大坂城惣構、二の丸、三の丸の破壊と堀の埋め立てが決まった。
なお、大坂冬の陣での東軍の損害は死者1万5千とも、「寄せ手人数万損害之由」とも言われている。
続き:【史実解説】大坂夏の陣(冬の陣の和睦~信繁討ち死~大坂城落城)
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