真田昌幸・信幸の名言!表裏比興の者が残した言葉とは?

真田昌幸

武田信玄に仕え、豊臣秀吉に「表裏比興の者」と評された真田昌幸。
徳川家康の家臣になって真田家存続のために生きた長男の信幸(信之)。

袂を分かつことになる親子は、どんな言葉を残しているのでしょうか。
戦国の世にたくましく生きた真田父子の言葉は心に染みます。

昌幸の名言

犬伏の別れ

我が真田家は今存亡のときを迎えておる。道を誤ってはならぬ。我らは二つに別れてそれぞれの道を歩むしかあるまい。どちらか生き残ればそれでよい。遺恨も後悔もあるまいぞ

真田家存続のために、「犬伏の別れ」と呼ばれる父子の別れの時の昌幸の言葉。昌幸と信繁は西軍、信幸は徳川家康の家臣として東軍で戦い、どちらかが生き残るという戦乱の世ならではの苦渋の選択でした。昌幸は断腸の思いで、どちらかが生き残って真田の血脈を残すという決断をし、信幸と信繁もそれを受け入れたのでしょう。

第二次上田合戦~関ヶ原の戦い

わしは戦いには負けておらぬ。時代という化け物に負けたのだ

関ヶ原の合戦は1日で決着し、東軍が勝利。徳川秀忠軍を足止めした昌幸にしてみれば、自分が戦いに負けたわけではなく、西軍が負けたのは運命だったということでしょうか。昌幸と信繁は、徳川家康に高野山での蟄居を申し付けられますが、死罪を免れたのは信幸の必死の願いを家康が受け入れたからでした。

九度山への流罪

さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに

昌幸の無念の思いが伝わってきます。高野山の麓の細川から九度山に移った昌幸と信繁の屋敷は別々、高梨内記、小山田治左衛門ら16人の家臣の屋敷も近くに造られます。西軍が勝利していたら、内府(家康)を高野山へ配流しようと考えていたのに……ということでしょう。

晩年の蟄居生活

此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるべく候

晩年の昌幸から信之へ宛てた手紙の文章。配流された当初は、赦免されて国許に帰れるだろうと希望を抱いていたようですが、10年余り続いた流人生活は昌幸の体力も気力も萎えさせました。生活費は国許の信之や高野山の蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄いますが困窮し、信之に援助金を催促します。信之に出した書状は20余通。最晩年の昌幸は病気がちでした。

豊臣家への想い

我あと三年生きれば、秀頼公に天下を献上す

この言葉には、家康が恐れた昌幸の武将としての熱い想いがあふれています。九度山に蟄居させられているが、もう3年生きることができたら豊臣秀頼様が名実ともに天下人となれるようにして差し上げるという決意でしょうか。しかし、それは叶わず、昌幸はこの世に別れを告げます。享年65。

信幸の名言

礼節こそ軍法

只兵法は譜代の臣を不憫がる、礼儀を乱さざることが軍法の要領

実に信之らしい言葉ですね。
信濃の獅子とも呼ばれた信之は多くの名言を残していますが、これもそのひとつ。兵法というのは家臣を大切にすることであり、主従といえども礼儀正しく、礼儀を失することがないように。これが戦に勝利する鉄則である。現代なら組織運営は、第一に部下を大切に思い、礼儀を守れば栄えることができるということでしょう。

ルールで縛り過ぎるな

常に法度の多きは宜しからず

いつもルールでがんじがらめにするのはいいことではない。ルールが多ければ家臣は自分の力を発揮できなくなり、戦やその他多くのことでも行き詰まってしまう。最小限のルールにするというのは、この時代も現代でも同じことなのかも。昌幸や信繁が死んでも真田家を後々まで存続させた信之の人としての器量が見えてきます。

辞世の句

何事も 移ればかわる世の中を 夢なりけりと思いざりけり

信之の辞世の句。弱肉強食、昨日の友は今日の敵という生き馬の目を抜く戦国乱世で親兄弟と袂を分かちながらも真田家を存続させました。誠実に真剣に全力で生き抜いた人生は夢だったのかも……信之の人生は、父や弟に何ら見劣りするものではありません。享年93。

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