戦国武将が軍議で使っている地図はどうやって作られていた?

日本地図

武将たちが絵図を広げるけれど、
当時の地図はどうやって作られていたの?

真田丸でも、軍議で絵図を広げている場面が多く登場します。

実測の日本地図といえば伊能忠敬。伊能忠敬の地図が完成したのは1821年。戦国時代の200年以上後のことです。

では、戦国時代の地図はどのように作られていたのでしょうか。

豆知識

地図は行政や軍事の要であり、国情や内容によっては秘密事項となる。領土をめぐる抗争が続いたドラマの時代、戦いには、自国と自国に接する他国の正確な地図が欠かせなかった。地図には、忍びなどが集めた情報を基に、領土の境界や河川、道、大まかながら高さも示された山などが描かれた。

当時は、『行基図』を除き、日本全体を表す全国図が描かれることはなかった。行基図とは、諸国を俵型に表しておおまかに描いた絵画的な地図である。公的な日本全図については、大化2(646)年や天平10(738)年などに『国郡図』の作成を命じた記録があるが、いずれも地図は現存しない。
古地図

日本全図は、豊臣秀吉が天下統一を果たしたことによって作成されることになった。日本全図は、全国支配のための基礎資料である。秀吉は、朝廷に献上するという名目で全国の大名に『御前帳』(土地台帳)と『郡絵図』を作成させた。残念ながらこのときの地図は残っていない。

幕府を開いた徳川家康は、秀吉の方針を受け継ぎ、諸大名に『国絵図』を提出させた。その国絵図は実測によるものではなかったが、方位、地形・道・集落・寺社などが当時としてはかなり正確に描かれていた。

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