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【史実解説】秀吉の死後~三成失脚~直江状~家康による上杉討伐

      2017/11/10

直江状

大河ドラマ真田丸の時代の情勢を俯瞰で振り返ります。

秀吉の死後~
徳川家康の台頭~
石田三成の失脚~
承兌書状と直江状~
家康による会津討伐までの流れを解説していきます。

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重鎮・前田利家の死後、武功派七将が三成を襲撃

秀吉の死後、五大老・五奉行は直ちに朝鮮の陣に使者を送り、現地で交戦中の加藤清正、小西行長ら諸将に撤収を命じた。撤収完了後、五大老筆頭の内府こと徳川家康が動き出す。

家康はまず、伊達政宗の長女・五郎八姫を六男・忠輝に娶らせるという密約を交わし、次いで縁筋の娘を養女とし、福島正則や蜂須賀家政の世子、清正、黒田長政と婚約させ、豊臣大名の取り込みを図った。家康はさらに細川忠興、島津義弘らの屋敷も頻繁に訪ねるようになる。

この露骨な多数派工作を法度違反として、秀頼の傅役・前田利家、石田三成らが詰問状を送ると、逆に使者を恫喝して送り返した。

そんな中、ただ一人、家康を牽制できる利家が病没する。享年62。秀吉の死の7ヵ月後、慶長4(1599)年閏3月ののことだった。その夜、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の武功派七将が一堂に会し、謀議を巡らした。七将の合言葉はただ一つ。「石田治部少輔を断固討つべし!」

三成は佐竹義宣らの力を借りて大坂を脱出、伏見城に逃げ込むが、両者の間に入って仲裁したのは、三成の仇敵・家康だった。三成は騒動を起こした責任を問われ奉行職を辞し、居城の佐和山城に蟄居する。

同年9月には、父・利家の大老職を継いだ前田利長と浅野長政、大野治長、土方雄久の4名が家康暗殺を企てたと密告される事件が起こる。密告者は増田長盛・長束正家の両奉行とされるが、この結果、長政は武蔵府中で蟄居、治長は下総結城に、雄久は常陸水戸に追放、利長に対しては加賀征伐も俎上にのぼったが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出したため沙汰止みとなった。利家の死の半年後、加賀前田家も家康に屈し、その支配下に入った。

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上杉謀反か!?家康、会津討伐を命じる

9月28日、家康は大坂城西の丸に入り政務を執り始めた。このとき、家康58歳、もはや老熟の域に達している。利家が死去し、三成・長政の二奉行、大老の利長が失脚し、すでに「天下殿」と呼ばれる家康に歯向かう力を持つのは、上杉景勝か毛利輝元くらいしかいなかった。

その景勝は、国替えになったばかりの領国会津に引き揚げ、会津の西の神指原に新しく巨城を築き、武具を集め、国境の防備を固めた。

慶長5(1600)年2月、これを越後春日山城主・堀秀治らが家康に注進し、家康は景勝と直江兼続の主従に謀反の疑いありと見て、早々に景勝自身が上洛し、起請文をしたためて陳謝せよ、と詰問状を送った。これに対し、家康の独断専行を痛烈に皮肉る返書、いわゆる「直江状」が兼続から届く。兼続は三成と肝胆相照らす仲だった。

家康は会津討伐を決断し、陣触れを出した。討伐軍の軍議に集まったのは、武功派中心の武将100人近く。そこには真田昌幸・信幸・信繁父子の姿もあった。家康は6月16日に大坂を出陣、京都伏見城に重臣・鳥居元忠らを残して東海道を下り、7月2日に江戸城に入った。

続き:【史実解説】家康による上杉討伐~三成挙兵~犬伏の別れ

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カテゴリー:歴史
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