【史実解説】昌幸の死~豊臣・徳川の対立~信繁の大坂城入城

大坂城

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大河ドラマ真田丸の時代情勢を俯瞰で振り返ります。

九度山での蟄居生活~
昌幸の死~
信繁の大坂城入城までの全貌を解説していきます。

高野山蟄居中に昌幸は病没
信繁は雌伏して天下大乱を待つ!

昌幸の死

慶長16(1611)年6月4日。真田昌幸が九度山の真田屋敷で病没する。享年65。

高野山配流から11年目、当初は昌幸も前途を諦めていなかった。本多正信らの取り成しで遠からず赦免されて故郷に帰れる日が来ると楽観していて、事実、そんな見込みを述べた書状も残っている。

だが、晩年の昌幸は長年、すべてに不自由な山暮らしが続き、気力も衰え、病気がちになり、食べ物の味すらわからなくなった。そして、国元の重臣に

馬を一匹送ってほしい。自分の馬はよそから所望され、くれてしまった。昌親の持ち馬から爪のよい悍馬をお願いしたい。その馬を眺めて病中の慰めにする

と書き送っている。
智謀と武勇で名を馳せた往年の昌幸の面影はもはやなかった。

昌幸の葬儀について、当主の信之は本多正信に相談した。正信は、昌幸は「公儀御はばかりの仁」であるから葬儀は控えた方がいい、それが信之のためだ、と諌めている。

昌幸の一周忌が終わると、家臣の多くは上田へ帰り、九度山に残った家臣は高梨内記と青柳清庵、それぞれの息子の高梨采女、青柳千弥、そして三井豊前だけ。信繁の周りはめっきり寂しくなったが、それでも正室の竹林院や側室たちに囲まれて平穏な日々が続いた。

信之は相変わらず、信繁への仕送りを続けている。

そんな中、信繁の屋敷が家事で消失したことがある。心配した国元の家臣が借金をして九度山に送金し、別途、心付けを送った者もいて、「これ以上、気遣いはいらない」と信繁は礼状で述べている。

信繁はかなりの酒好きで、酒が唯一の気晴らしだった。あるとき、大坂詰めの家臣に、焼酎を詰めた壺を2つ九度山に運んでほしいと無心し、その際、

壺の口をよく閉め、その上に紙を貼っていただきたい

と細かい注文をつけている。

また、国元の重臣が歳暮に鮭を贈ってきた礼状の追伸に、最近、その重臣が連歌に凝っていて、自分も勧められたが、老いの学問でうまくいかないと自嘲している。

しかし一方で、信繁はかつて秀吉近習の馬廻衆として活躍した武将の矜持を胸中に秘めていた。屋敷では夜更けまで兵書を読みふけり、父・昌幸の生前は兵学の問答を欠かさず、近隣の郷士や郎従を集めて、兵術、弓、鉄砲の鍛錬を続けていた。また、そうでなければ、後に大坂の陣で「日本一の兵」と称えられる軍功を挙げることはできなかっただろう。

豊臣と徳川の対立

慶長16(1611)年3月、京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼が会見した。この席で家康は秀頼を臣従させることこそできなかったが、秀頼が二条城に出向き、家康に頭を下げたことは大きかった。家康は徳川政権が豊臣体制を凌駕することを天下に見せつけたのだ。その3ヵ月後に真田昌幸が病没、その後、加藤清正、浅野幸長、前田利長など豊臣恩顧の大名も相次いで世を去った。

そして慶長19(1614)年7月、家康は豊臣氏の方広寺大仏開眼供養の延期を命じる。梵鐘の銘文の中の「国家安康」「君臣豊楽」は家康の諱(いみな)を分断し、豊臣を君として楽しむという意味で、家康を呪詛するものだと詰め寄ったのである。

徳川・豊臣両氏の関係がにわかに緊迫する。すかさず徳川方が3条件を突きつける。

  • 秀頼の大坂城退去
  • 淀殿の江戸への入質
  • 秀頼の江戸と駿府への参勤

激昂した大坂方が取次役の片桐且元を謀反人と決めつけ誅殺を図ったので、且元は大坂城を退去する。もはや一触即発、開戦前夜である。

信繁の元に、大坂城の大野治長の使者がやってきたのは、そんな不穏な空気の中だった。使者は当座の贈り物として黄金200枚、銀30貫文を渡して信繁の大坂城入城を請い、兵5,000を預けると言った。信繁は入城を快諾する。問題はどうやって九度山を脱出するかだ。

大坂城入城

和歌山城主・浅野長晟は信繁の動きに神経を尖らし、高野山はもちろん、大坂への道筋にあたる橋本峠近辺の村々まで警戒を厳重にし、信繁の九度山脱出を阻止せよ、と触れを出していた。これを知っていた信繁は、九度山のみならず、橋本近隣の村人まで屋敷に招き、日頃の恩返しにと大盤振る舞いをする。その日は屋敷に仮屋を建て、数百人に酒食を供して歓待した。喜んだ村人は大いに飲食し、かつ騒ぎ、ついには全員が酔い潰れてしまった。

信繁主従は素早く行動を起こし、村人が乗ってきた馬に荷物を括りつけ、妻子を乗り物に乗せ、弓、鉄砲で武装して紀ノ川を渡り、橋本峠を越え、一路大坂へ急いだ。10月7日から10日のことだった。

信繁の九度山脱出を知った高野山は愕然として色を失う。慌てて金地院崇伝に使者を出し、その後、監視役の文殊院自身も高野山を発つ。

家康が信繁の大坂城入城を知ったのは10月14日だった。駿府を発ち浜松城に入ったとき、京都所司代・板倉勝重からの急使が駆け込んできた。家康は足早に使者がいる控えの間に行き、戸をつかんで立ったまま、

籠城した真田は親か子か?

と尋ねた。使者が「子の左衛門佐の方で、父・安房守は先年病没しております」と答えると、家康はいささか安堵の表情を浮かべたが、戸をつかんだその手はぶるぶる震え、戸が音を立てて鳴っていたという。

続き:【史実解説】大坂冬の陣(信繁の大坂城入城~真田丸の構築~徳川軍撃破)

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