いよいよその日がやってきた。
場所は三方ヶ原の狩り場である。
常慶に促され、虎松と亥之助は家康のそばへ進み出た。
ひざまずき顔を伏せる。
「面を上げよ」
はっ、と声を張り、虎松は顔を上げた。
同時に軽い落胆を覚えた。初めて目の当たりにした家康は、顔も姿も子だぬきそのものだったのだ。
ところがその直後、思わぬ言葉に虎松は舞い上がる思いになった。
家康「わしはの、この者は心の内では井伊として仕えたいと思うておると思うのじゃが。どうじゃ」
虎松は、「はい」と思わず叫んでいた。
虎松「実は心の奥底では、ずっと井伊の家名を再び立てることを夢見ておりました。しかしもはや、半ば諦め」
家康「常慶。この者の気持ちを汲んでやれぬか」
常慶「それは! 松下としては承服いたしかねまする!」
突然の事態に常慶は激憤した。
そんな常慶をなだめながら、家康はさらに驚くべきことを口にした。
家康「虎松、今日よりは万千代と名乗るがよい。亥之助は万福と。千年万年、井伊が続くよう」
家康の幼名、竹千代から『千代』の字が与えられたのは明らかだ。
わが名は万千代…。感激に身を震わせ、虎松改め万千代はその場に平伏した。
虎松「井伊万千代、このご恩は一生忘れませぬ。身命を懸け、お仕えする所存にございます」
翌日、万千代は浜松城に登城した。
ところが──。
主殿にずらりと居並ぶ徳川家の重臣に引き合わされ、万千代は一人一人の名を必死で頭にたたき込んだ。鳥居元忠、大久保忠世、本多忠勝、酒井忠次、その他その他…。そして、胸を張って挨拶した。
「井伊直親が一子、井伊万千代と申します。井伊の家名をお許しいただきましたご恩、生涯忘れることなく、徳川のお家に身を粉にしてお仕えする所存にございます! これなる小野万福も同じ覚悟にございます」
すると、榊原康政(尾美としのり)と名乗った武将が言った。
康政「両名に、今日から草履番を申し付ける」
ぞ、草履番?
万千代と顔を見合わせた亥之助改め万福が、悲鳴のような声を上げた。
万千代「お、恐れながら! われらは近習、小姓としてお仕えすると伺っておったのですが」
忠次「それは陰日向となり徳川に尽くしてきた松下家の者としてならばの話じゃ。潰れた家の遺児、しかも、今川の国衆。徳川に含むところあるやもしれぬ家の者を、やすやすと殿のおそばに置けるわけがなかろう」
忠次が言うと、家康がにこやかに引き取った。
家康「どうする? やはり松下でということならば、小姓にすることもできるが…どうじゃ、松下では」
やられた!
子だぬきにはめられた。
悔しさを抑え、精いっぱいの体裁をつけて、万千代は家康の顔を見た。
万千代「それがしは昨日、殿から井伊万千代という名を頂きました。それを翻すは不忠の極み。かくなる上は日の本一の草履番を目指す所存にございます!」
家康「そうか。では、励むがよいぞ」
笑みを消さずに、子だぬきが言った。
万千代の脳裏には、家康を罵倒する言葉が次から次に浮かんだ。奥歯を食いしばり、万千代は「はい」と大音声を返した。
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