武田から届いた書状を忠次が差し出した。
目を通した家康は、深く溜め息をついた。
家康「武田はすでに駿府を落とし、氏真は掛川に逃げ延びた由。急いで掛川を攻めよとのことじゃ」
忠次「遅れれば、武田は遠江まで切り取りに参るやもしれませぬ。今この揉め事に手間取っておる時はないかと」
忠勝「戦を進めるうえでも、近藤殿らのほうが頼りになるのは確かですしな」
謀略を疑いつつも、忠次や忠勝は井伊を切り捨てろと言うのだ。
家康は返事をすることなく、立ち上がって言った。
家康「…牢はどこじゃ」
牢の中で、直虎は家康からの書状を見つめていた。
と、扉が開いた音がした。
真っ暗な暗闇の中、松明も持たず近付いてくる。
人影が牢の少し前で足を止めた。
直虎は、もしや、と勘が働いた。
「…徳川様?」
確信はなかったが、牢格子に近寄って話しかけた。
直虎「こたびのこと、神明に誓いまして、われらは徳川様を襲ってなどおりませぬ。徳川様の軍勢には決して逆らってはならぬと民百姓にまできつく言い聞かせておりました」
反応はないが、聞いてくれているようだ。
直虎「今川の野伏か、または、考えたくはございませぬが…近藤殿に謀られたのやもしれませぬ。どうか、徳川様の手で事の次第をお調べいただけませぬでしょうか」
返事はない。
直虎「二心ない証しとして、われらは虎松の母まで差し出しました。さようなわれらが何故、手向かいなど…」
そのとき、人影が動いた。うずくまっているようだ。
目を凝らすと、直虎に向かって土下座しているように見えた。
直虎「それは…いかなる意味にございますか?いかなる意味かと訊いております! お手を上げ、お答えくださいませ!」
うずくまったまま動かない。直虎の怒りは頂点に達した。
直虎「あなた様が指図できぬことなどございますまい! ご自分で書かれたことを、ここに書かれたことを今すぐお命じくださいませ!」
人影は、そのままの姿勢で後ずさり始めた。
直虎「待たれよ!徳川様! お待ちあれ!」
牢舎から出てきた家康に、外で待っていた数正が声を掛けた。
数正「何をおやりになったのですか」
家康「…また、瀬名を怒らせてしまうの」
数正「厭離穢土(おんりえど)にございます。致し方ございますまい」
翌朝、徳川軍は井伊谷を出立した。
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