【史実解説】第二次上田合戦 真田昌幸の知略で徳川の大軍を撃破!

上田城

大河ドラマ真田丸の時代情勢を俯瞰で振り返ります。

第二次上田合戦の全貌を解説していきます。

昌幸・信繁父子を討つために、徳川秀忠の大軍が上田城に攻め寄せてきた。
その中には犬伏で別れた信幸の姿も。昌幸・信繁父子はどんな作戦で迎え撃つか?

決戦前夜、信濃・甲斐2国の軍事制圧を認めさせる

慶長5(1600)年7月、三成方の西軍は丹波・但馬で軍事行動を開始する。徳川家康はこれを尻目に、7月21日、大軍を率いて会津を目指して江戸を出陣するが、下野小山で行軍を止め、25日に「小山会議」を開いた。

妻子を人質に取られているものの、福島正則、黒田長政ら武功派の豊臣大名の戦意は高揚し、「三成憎し!」の一念で西軍との決戦を衆議一決、反転して西上することになった。

一方の西軍は8月1日、京都伏見城を攻略、次いで伊勢の徳川方を攻め、8月10日に三成らが大垣城に入り、天下分け目の決戦に備える。

そんな中、真田昌幸は三成ら西軍首脳との駆け引きに余念がない。昌幸はまず、何の相談もなく挙兵した三成を詰った。三成は事がどう転ぶかわからないので相談できなかったと言い訳しつつも、今は大事を事前に伝えなかったことを後悔していると詫びを入れている。

次に昌幸は恩賞の交渉を始め、まずは信濃一国の仕置を任されるが、さらに要求を釣り上げ、甲斐国についても軍事制圧と領有を西軍首脳に認めさせた。この間、昌幸は信幸の徳川方の帰属を知らせていない。三成はしきりに信幸の去就を気にしているが、肝心な点をあやふやにしたまま、自らの要求を飲ませた昌幸の知略は相変わらずだ。

西軍の実質的な副将格・大谷吉継からも書状が届く。そこには在坂の真田父子の人質は吉継が無事に保護しているから心配せずともよい、と書かれていたが、人質の中に信幸の妻子は含まれていない。信幸は前の年、「女中改め」を口実に妻子を帰国させており、その際、信繁との間で一悶着あったと記されている。信幸が躊躇なく徳川方に付いたのも、小松殿が沼田城に詰めていたのも、そんな経緯があったからだ。

緒戦──挑発して誘い出し一気に襲撃する!

小山会議後、豊臣大名ら東軍先鋒は西へ急ぎ、家康は江戸城に入った。そして8月24日、徳川秀忠率いる大軍が宇都宮を出陣する。秀忠軍には軍監の本多佐渡守正信の下、榊原康政、大久保忠隣、酒井家次ら徳川譜代の諸将のほか、小笠原信之など与力大名が加わっている。

秀忠軍は高崎、松井田を経て碓氷峠を越え、9月2日に小諸に着陣した。これに仙石秀久、石川康政など地元勢が馳せ参じ、真田信幸も合流する。総勢38,000。秀忠はこれが初陣だった。

翌9月3日。昌幸の使者が信幸の陣所を訪れ、「頭を丸めて降参したい」と昌幸の意向を伝えた。秀忠は喜び、「命だけは助けてやろう」と鷹揚に答え、信幸と義弟の本多忠政に昌幸との会見を命じた。ところが上田城外の国分寺での会見では、昌幸は態度を豹変させ、城の明け渡しを拒んだばかりか、秀忠を愚弄する言葉を思うさま口にした。

秀忠は激怒した。いや、逆上した。秀忠は即座に上田城殲滅を決断、5日、砥石城の攻略を命じ、信幸の軍勢が攻め込むと、城を守る信繁はすでに兵をまとめて脱出、上田城に退散していた。信幸は無血占領し、そのまま砥石城に詰めることになる。こうして父子・兄弟が直接刃を交える事態は避けられた。

昌幸率いる真田軍は、兵と領民約5,000(3,000とも)。その主力は上田城に籠城していた。これをどう城外に誘き出すか。

6日、本陣を染谷原に置いた秀忠は牧野康正・忠成父子らを奉行とし、苅田をやらせた。すると城から鉄砲足軽が繰り出し、盛んに鉄砲を撃ちかけてくる。死傷者続出の徳川方が怒り狂って応戦し追撃すると、鉄砲足軽は慌てて城に逃げ始める。徳川軍がなおも追撃し、ふと気付くと城の目の前まで来ていた。挑発するはずが、逆に挑発されてしまったのだ。そのとき、城側の弓、鉄砲の一斉射撃が始まった。真田軍はさらに城門を開いて出撃、徳川方に襲いかかる。秀忠軍は緒戦から多くの犠牲者を出す手痛い敗北を喫したのだ。

敵前偵察と伏兵で秀忠軍は総崩れに!

昌幸・信繁父子はさらに秀忠軍を挑発する挙に出た。わずかな手勢を引き連れて敵前偵察に赴き、ことさらその身をさらしたのだ。真っ赤な鎧兜に六文銭の旗指物。敵将を討ち取る絶好のチャンスと秀忠軍は色めき立ち、続々と神川を渡り、真田父子を追走し始めた。2人はこれを適度にあしらいつつ後退を続け、城に引き揚げる。そして秀忠軍全軍の神川渡河を見届けると、上流の伏兵に命じて、流れを堰き止めていた堰を一気に切り落とさせた。

秀忠軍が城に殺到すると、真田軍は弓、鉄砲をつるべ撃ち、主力軍が出撃して猛攻を加え、さらに上田城側面の林に潜んでいた伏兵が側面から突撃したので秀忠軍は大混乱に陥った。

壊滅状態で逃げる秀忠軍に、真田軍は止めを刺す。秀忠軍が辛うじて神川まで逃げ延びると、進軍の際は容易に渡れた浅瀬が増水し急流となっていた。神川で溺死した徳川兵も数知れなかった。

昌幸にはさらにとっておきの切り札があった。実は砥石城の東の虚空蔵山城にも兵を伏せていたのだ。これが迂回して秀忠本隊を背後から急襲すると上田合戦の攻防を見つめていた秀忠は命からがら脱出し、小諸方面に敗走、秀忠軍は総崩れになった。

昌幸・信繁父子は知略を駆使して秀忠軍を手玉に取り、またしても徳川の大軍を撃破し、家康に苦杯を舐めさせることになったのだ。

続き:【史実解説】関ヶ原の戦い 東軍勝利と石田三成、大谷吉継の死

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