それからしばらくして、自然の得度式が行われた。
たちの悪い風邪でも引いたか、そのころから直虎は咳が止まらず、時に高熱を発するようになった。
横になると、龍雲丸の顔が思い返された。
「俺ぁこのあと、南蛮の船に乗らねえかって言われてまして。なんなら、ともに行きますか?」
別れ際、直虎は餞別にと水筒を龍雲丸に手渡した。そして2人は笑顔と、短い言葉を互いに交わした。
「われより先に死ぬなよ」
「そっちもな」
今は、異国の海の上にでもいるのだろうか…。
同じ頃、新野姉妹の長女・あやめが龍潭寺を訪れた。
「実は新野からお願いがございまして…」
今は秀吉に仕える、三女・桜の夫を、徳川に奉公できるようとりなしてもらえないか、とあやめは訴えた。次女の桔梗も、夫に先立たれたばかりだという。
あやめが帰ると、咳がぶり返した。苦しい息の下で直虎は、新野三姉妹を万千代に引き取ってもらうことを考えた。あやめの夫・方久も、商いで出たり入ったりだ。皆で暮らせれば、それがいちばんなのではなかろうか…。咳が鎮まるのを待ち、直虎は南渓に話してみた。
「ここのところのことで思うたのですが…。表の世でうまくいかぬ者たちに対し、逃したり、生き直す場を与えたり、世に戻るための洞穴のような役目を果たすところが要るのではないかと」
ひとしきり考え、南渓はうっすらと笑みを浮かべた。
「逃げ回り、画策し、家を潰しまでし。それでも命脈を保ってきた井伊じゃ。…それは井伊家が負うべき役目かもしれぬの」
それでいい。直虎は思った。
その日から咳が激しく、熱も高くなり、やがて床から離れられなくなった。
様子を見に来た南渓に、直虎は言った。
「見送るばかりの身の上であったではないですか。いつもいつも、私ばかりが生き残り」
ゆえに未練などないと思っていた。いざ死ぬときには、これで終われると、ほっとするのではないかと。
「なれど今、ひどく生きたいと思うておりまする。生きて、この先を、井伊の旗の下に皆が集い、徳川の旗の下に日の本中が集うのを…この目で見たい」
直虎は目を閉じた。どこからか、笛の音が流れてきた。身を起こし、布団から出て、美しい音色を頼りに歩いた。月明かりの下、井戸端で、亀之丞が笛を吹いていた。直虎に気付き、亀之丞は口から笛を離した。
「待ちかねたぞ、おとわ」
そばに立つ鶴丸が、真面目くさった調子で言った。
「おとわ様、遅れるにもほどがございまする」
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