家康は悲しみと怒りを必死でこらえ、信長は冷たく笑っていた。丸桶を前に押しやり、家康は言った。
「わが妻、瀬名の首にてございます」
信長がわずかに眉を上げた。武田と通じたのは妻であり、息子は何も知らなかった。何とぞお許し願いたい。瀬名の思いを刻み込むように言い、家康は続けた。
「われらはこたび、北条と手を結びましてございます。武田を亡きものにしたあとも、徳川は織田と変わらずよい関わりを続けていけることを願うております」
敵に回ることも辞さず。その意思を両の目に込めた。
信長が、声を立てて笑った。
「そこまで言うなら、徳川殿の好きになさるがよい。その代わり、余も好きにするがな」
凍りつく家康をその場に残し、信長は歩み去った。
9月15日。父・家康の命により、徳川信康、自刃。
21歳という若さであった。
別れ際、押しつけるように瀬名から渡された紅入れを、直虎は万千代の前に置いた。
直虎「よろしきときに、殿にお渡し願えればと思うて」
万千代「…とても、お渡しできるようなご様子では」
無言の時が続いた。浜松城の座敷を、冷気を含んだ秋風が吹き抜けた。呟くように直虎は言った。
直虎「そなたの父上を救えなんだとき、私にできたことは、父上の変わり身となって生きることじゃった」
万千代は、ぼんやりと紅入れを見ている。
直虎「生き残った者にできるのは、その志を宿すことだけじゃ。信康様は、どのような志を持っておられた?」
万千代「…いつも、己の立場より、お家の行く末を考えるようなお方で。…殿も、いつもは1人で打たれる碁も、信康様とだけは対局なさり」
直虎「ならば、そなたが信康様の変わり身となればよいではないか」
そう言われて万千代は、自分が2歳違いの信康に、兄のような感情を抱いていたことに気付いた。
「ではの」
直虎は腰を上げた。座敷をまた、風が吹き抜けていった。
ぽつねんと座り、家康は1人で碁を打っていた。背後から近付き、万千代はザッと碁盤を払った。
「ご無礼を。お考えが進んでおらぬよう思われたので。…もう一度やりましょう。私がお相手します」
家康が怒気を浮かべて立ち上がり、飛び散った碁石を拾っては万千代に投げつけ始めた。
「お、お前は、何様のつもりじゃ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにさせ、家康は繰り返した。碁石を浴びながら、万千代は瀬名の紅入れを碁盤の端に置いた。
「お方様が見ておられます」
石つぶてが止まった。主の顔を見、万千代は言った。
「考えましょう。この先の、徳川のために」
立ち尽くしていた家康が、碁盤の前に腰を下ろした。お方様と信康様と、俺の気持ちが入った。居ずまいを正して座り直し、万千代は家康の言葉を待った。
[次回] 第47話「決戦は高天神」あらすじとネタバレ
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