圧勝に終わった長篠の勢いを得て、家康は武田方となっている遠江の諸城に攻めかかった。戦いの数日後、浜松城の蔵に、使者の大きな声が鳴り響いた。
「できておる分でかまわぬゆえ武具をまとめよ。急ぎ、兵糧・武具を届けよとのお達しじゃ!」
万千代「…き、来たあぁ!」
コツコツと作業を続け、武具の修繕と手入れはほぼ終わっている。命じられるまま万千代たちは、重い兵糧の荷をまず城の庭へと運んだ。そこで見たのは、家臣のもとへ武具を運んでくる小五郎らの姿だった。
小五郎「なんと! これほどに蓄えてあったか」
万千代「はい。かようなこともあろうかと、昼夜を徹し。それがしも、陣中にお届けしたく存じます!」
万千代「われらもお連れくだされ! その槍弓を直したのは、私と万福にございます!」
小五郎「井伊殿。気持ちは分かるが、偽りはようないぞ」
いつになく生真面目な表情になって、小五郎が言った。
「今川の、しかも潰れた家の子。何から何まで己の働きとし、お目に留まりたいのはよう分かるが」
家臣が侮蔑の表情を浮かべ、小五郎らとともにその場を離れた。追おうとする万千代を正信が引き止めた。
正信「言っても無駄にございますよ。あれは酒井の一門の輩。立場が悪うなるだけにございます」
拳を握る万千代に、正信は続けた。
正信「向こうが徳川での権勢を誇る家の子を強みとしてくるなら、こちらは今川の国衆の、しかも潰れた家の子であることを強みとしてはいかがです? さすが潰れた家の子、いやあっぱれ! そう言わせるのです」
万千代「ではノブは、さすが裏切り者と言わせるのか!」
正信「もちろん、そのつもりにございます」
正信は明るく笑っている。
そんな様子を万千代は圧倒される思いで見ている。
正信「殿がかようにはみ出し者の私どもを迎え入れたのには必ず意味があるはずです。殿を信じ、いつか時が来るのを待ち、バッと前に出るのです」
正信の言葉は、不思議と胸にしみた。万千代は蔵に戻り、わずかに残った槍の手入れを続けた。
秋になった。
各地で転戦を重ねていた家康と将兵たちが、数ヶ月ぶりに城に戻った。ささやかな宴が催されたその夜、玄関の掃除をしていた万千代は、とんでもない言葉を榊原康政から囁かれた。
「急ぎ殿の寝所へ」
え。寝所?
全身が粟立つのを万千代は感じた。
康政「粗相のないようにな。着物も取り替えるよう」
康政はそそくさと立ち去った。ごくりと唾をのみ、万千代はすぐそばで口を開けている万福を見た。
万福「これはその、そういうこと、なのかの。徳川の殿は、そちらは好まぬとお聞きしておったのじゃが…」
織田家の前田利家、森可成などは、主君と契りを結んだうえでの出世だったと聞く。となれば…。
万千代「これこそが、酒井の一門を追い落とすために御仏がくださった好機だ。万福、新しいふんどしを持て!」
万千代は覚悟を決めると、力み返って家康の寝所に赴いた。
ところが、あっさりと肩透かしを食らった。
万千代「ち、違うのでございますか!? 榊原様に着替えて寝所に伺うようにと言われ…」
家康「あまりにも汚れておったゆえにであろう」
草履番の誤解を笑いに笑った家康は、真顔に戻って言った。
家康「あの槍弓を整えたは、そなたと万福か? いつもよりずいぶんと細かく手入れされておったゆえ、新しく入った者がやったのではないかと思うてな。草履棚も様変わりしておったし」
やはり殿は、見てくださっていたのだ。目尻に浮いた涙を拭う万千代に家康はこう続けた。
家康「明日より常の小姓として務めよ」
万千代「あ、ありがたき幸せに存じます…」
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