次郎「生きておったのか、政次」
政次「ああ」
政次「直親の内通ゆえに、今川に捕らえられてな。井伊にはもう政を任せられる者もおらぬようになってしまったと、戻されたというわけだ」
昔の政次とは違っていた。
冷たく底光りするような目をしていた。
皆死んでしまったのに、政次だけが助かってここにいる。
幼なじみが今川に寝返ったことを、このとき次郎は直感した。
次郎「裏切るつもりで裏切ったのか、
それとも、裏切らざるをえなかったのか!」
政次「恨むなら、直親を恨め」
そう言うと、政次は冷笑した。
政次「ヘタを打ったのはあいつだ。
何度も同じことを繰り返し、井伊は終わるべくして終わったのだ」
言いたいことを言うと、政次は去っていった。
直親を恨めじゃと…?
次郎は怒りが噴き出した。
傑山(市原隼人)の槍を持ち出し、次郎は政次を追った。
そこに南渓がふらりと現れた。
南渓「鶴を狩りにでも行くか?」
怒りと悲しみが次郎の中で渦巻いた。
槍を地面に突き立てると、次郎は大声で叫んだ。
次郎「われのせいで直親は死んだ!
藤七郎も孫一郎も、おおじじ様も、左馬助伯父上も中野殿も!われは災厄をもたらすだけじゃ!」
南渓「己を責めたところで、死んだ者は帰らぬ」
南渓は次郎に近付くと、槍を引き抜いて言った。
南渓「じゃが、死んだ者を己の中で生かすことはできる。
例えば、偲ぶことで。
例えば、習うことで。
ときには、習わぬことで。
…他にはないかの?」
直親を生かすことなどできない。
できることがあるとしたら…
次郎は頭を巡らせ、南渓を見つめた。
「亀にこの身を捧げる。
…われは、亀の魂を宿し、亀となって生きていく」
南渓「それがお主の答えなのじゃな」
次郎はうなずき、唇を噛んだ。
涙が溢れ、頬を伝って落ちた。
井伊の居館に南渓の声が響いた。
南渓「井伊は今まさに存亡の危機を迎えておる」
聞いているのは、政次と、今川からの3人の目付の近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久、奥山家を継いだ六左衛門、中野家の継嗣・直之だ。
南渓「次に家督を継ぐ虎松は、まだあまりに幼い。
墨染めの身でまことに僭越ながら、井伊の末席に連なる者として、虎松の後見となる者を推挙したい」
誰が指名されるのか、誰も聞かされていない。
全員が耳を立てた。
南渓がひときわ大きく声を張った。
「その者の名は、井伊直虎と申す」
なおとら?
聞いたことのない名に、一同が顔を見合わせる。
そのとき、襖ががらりと開いた。
その姿に、誰もが息を呑んだ。
そこに立っているのは、華やかな衣装に身を包んだ次郎だった。
「われが、井伊直虎である」
強く見つめている政次を見返し、言った。
「これより井伊は、われが治めるところとなる」
とわでも次郎法師でもない。
井伊直虎がこの世に誕生した瞬間であった。
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