【史実解説】家康による上杉討伐~三成挙兵~犬伏の別れ

犬伏の別れ

大河ドラマ真田丸の時代情勢を俯瞰で振り返ります。

家康による会津討伐~
犬伏の別れ~
沼田城と小松姫~
上田城帰還までの流れを解説していきます。

信繁の義父・刑部を味方に引き入れ三成挙兵

信繁の義父・大谷刑部少輔吉継は所領の敦賀などで兵3000を募り、会津討伐軍に従軍することになった。その最中、三成と家康を和解させるため三成の嫡男・重家を自らの軍に加えることを思い立ち、佐和山城へ向かう。

ところが、そこで三成に家康打倒の挙兵を持ちかけられる。吉継は「無謀にして勝機なし」と反対したが、三成の決意は変わらず、その熱意にほだされ、敗北覚悟で三成に与し、西軍に馳せ参じることになった。

こうして三成は吉継を味方に引き入れ、7月11日に挙兵。2人は、豊臣奉行衆や毛利輝元、宇喜多秀家らを口説き落とし、輝元が総大将として大坂城西の丸に入った。そして、故太閤の遺言を破る家康の行状を逐一書き連ねた「内府違いの条々」13ヵ条を作って諸大名に送り付け、会津討伐軍に従軍中の大名の妻子を人質に取る挙に出た。

父子・兄弟を東西両軍に引き裂いた「犬伏の別れ」

家康を弾劾する「内府違いの条々」と増田長盛、長束正家、前田玄以三奉行の連署状は、昌幸、信幸、信繁父子の元にも届いた。真田の軍勢が上杉討伐軍従軍のため宇都宮を目指して進軍、下野国犬伏(栃木県佐野市)に着陣していたときだ。

三成からの書状を読んだ昌幸は密かに信幸、信繁兄弟を陣所に呼び、人払いを厳命して密談した。家康に従うか、三成に味方するか……激論の末、昌幸と信繁は西軍に与し、信幸は東軍に味方することになった。世に言う「犬伏の別れ」である。

なぜ父子・兄弟が敵味方に分かれ戦うことになったのか?昌幸は「再び天下大乱の時が来た。この時流に乗じ家を隆盛にし、大望を遂げるのが武将の生き様だ」と言い、信繁も頷く。一方、信幸は「会津討伐軍への従軍を約し、ここまで出陣して、今さら逆心を起こすのはいかがなものか」と父を強く諌めたが、信繁の本心はどうだったのか?

───天下を治めるためとはいえ徳川内府の専横は断じて許せぬ!

真田一族に脈々として流れる反骨精神が沸き起こったのではないだろうか。

信幸は天正13(1587)年、昌幸が家康の与力大名になった際に初めて家康に拝謁、その後駿府に出仕して家康の信頼を得、徳川四天王の一人、本多忠勝の娘・小松姫を正妻に迎えている。しかし、信幸の前妻は、昌幸が復姓して家督を継ぐ前の真田家当主・信綱(長篠の戦いで戦死)の娘だった。

この密談の際、重臣・河原綱家が陣所を覗くと、烈火のごとく怒った昌幸が下駄を投げつけ、それが前歯に当たった綱家は生涯前歯が欠けたままだったという。その後、昌幸・信繁は陣払いして上田を目指し、信幸は宇都宮に進んで徳川方に昌幸・信繁の三成方への加担を報告する。

上田への帰路、昌幸・信繁の軍勢は中山道ではなく吾妻街道を進んだ。その途中、沼田城に立ち寄り、昌幸は信幸の妻の小松殿に「孫の顔が見たい。開門せよ」と迫った。むろん城を乗っ取るためだ。だが大手門の櫓に軍装して現れた小松殿は、頑としてこれに応じない。さすがの昌幸も弱り果てたが、翌朝、小松殿は女装束で昌幸らの宿泊所に姿を見せ、2人の娘に挨拶をさせたという。

信幸は、父・弟と袂を分かった忠節を家康に褒められ、小県郡を「親之跡」として安堵されたが、つらい立場だった。わずか4歳の次男・信政を人質として江戸に送り、重臣・矢沢頼幸に抱かれて御前に参じた信政を、家康は近くまで招き寄せ、吉光の脇差を与えたと伝わっている。

続き:【史実解説】第二次上田合戦 真田昌幸の知略で徳川の大軍を撃破!

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