4月10日放送の真田丸 第14話『大坂』の詳細なあらすじです。
ネタバレ注意!
あらすじ
上田城において、真田勢は徳川氏の大軍に圧勝した。世にいう「第一次上田合戦」である。しかしその戦のなか、源次郎信繁は最愛の妻・梅を亡くす。
春日山城に戻った信繁は、上杉景勝から哀悼の意を表されるが、その悲しみが癒やされることはなかった。重苦しい空気を変えようとした景勝の家臣・直江兼続は、先の戦において真田氏が挙げた手柄を賞賛し、信繁もこれに笑顔で返すが、その表情は沈んだままだった。
一方、浜松城では戦に敗れた徳川家康が、再び真田氏と交戦することを見越して駿府城を改修していた。
調略
それを受けて真田昌幸は、透破の頭領である出浦昌相を介して、浜松城に囚われている実弟の真田信尹に指示を出し、石川数正を調略していた。長年家康の下で働いていた重臣である数正をに出奔をそそのかし、羽柴秀吉のもとへ駆け込ませていたのだ。
徳川方の機密を知り尽くした数正の離反は、家康を不安のどん底にたたき落とした。秀吉の攻撃を恐れた家康は、急きょ真田氏との戦を取りやめて信濃から撤退する。
春日山城に戻った信繁は、城の望楼に上っては遠くの景色を眺めていた。三十郎はそんな信繁に、徳川氏の撤兵を伝えると、先に踏み出すべきだと諫言する。
「世の中は動いております。立ち止まっている暇はありません。真田のため上杉のため、今なにができるか考えようではありませぬか。先へ進むことと、お梅様を忘れることは違います!」
信繁は、立ち止まっていてはいけないということを頭では理解していたのだが、心の整理がつかずにいた。
そのころ家康は、ひたすら秀吉が襲来するのではないかと怯え、食事も喉を通らない状態だった。
そんなある日、内陸部を震源地としたマグニチュード7を超える大地震が近畿・中部地方を襲った。世にいう「天正の大地震」である。最も被害が大きかったのは近畿だった。秀吉はこれより復興に力を入れ、家康との戦は立ち消えとなった。家康は地震に救われたのだ。
やがて家康は、座敷牢に入れていた真田信尹を家臣として召し抱える決意をする。牢にいながら石川数正の出奔を手助けして自分を窮地に陥れた、信尹の手腕を高く買ってのことである。家康に仕えるふりをして、この先も昌幸と裏で通じる恐れも信尹にはあったのだが、家康はそれを承知のうえで信尹を家臣として取り立てた。
関白
一方、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると、小牧・長久手の戦いで家康と和睦し、大坂城を築いて関白となっていた。信長の死からわずか四年、秀吉は天下人の座をほぼ手中におさめ、各地の大名に上洛を求めて忠誠を誓わせた。
それに対して、北条氏政はあくまで強気を貫き通して上洛を拒否し、しばらく秀吉と事を構えたくないと考えた家康も、真田退治を理由に上洛を先延ばしにしていた。
秀吉からの上洛要請は、上田城の昌幸にも届いていた。昌幸は、大名でもない自分に上洛を促す秀吉の意図が読めないうちは動けないとして、上洛を先送りにした。
同じく秀吉から上洛を求められた上杉景勝は、秀吉に会いにいくことを決意していた。かねてから秀吉と親しかった景勝は、挨拶をするだけで秀吉に降伏するわけではないと信繁に説明すると、上杉氏は何者にも屈することはないと高らかに宣言する。そんな景勝は、信繁を大坂に随行させようとする。城ができて賑わいを見せている大坂で、信繁の見聞を広めさせようと思ったのだ。
言葉とは裏腹に、景勝は家を守るため秀吉の軍門に降ることを決断していた。秀吉につけば、徳川氏や北条氏がすぐに攻めてくることもなく、国を立て直す時間も稼げると算段したのだ。そのことを知らずにいた信繁は大坂行きに気乗りがしなかったのだが、直江兼続から実情を聞き、景勝が自分を息子のように思ってくれていることを知ると、景勝とともに大坂へ行くことを決心する。
上田城の昌幸は、大坂へ行くこととなった信繁に、秀吉の真意を探らせようと働きかける。人の懐に飛びこむのが巧みな信繁なら秀吉も気にいるはずだと、昌幸は踏んでいたのだ。上杉氏のもとに信繁を送ったことは大正解だったと、昌幸はほくそ笑むのだが、そんな父を見て信幸は心が晴れずにいた。信繁ばかりが父に重宝され、信幸は自分が蚊帳の外におかれたように感じたのだ。
その後、信幸は妻・こうに膝枕をしたつもりで心のうちをさらけだすのだが、実際に膝を貸していたのは母の薫だった。そうとは知らずに気持ちを吐露していると、廊下からこうが現れ、信幸は母に話していたことに気づいて慌ててとりなす。こうによれば、信繁の子であり、梅の遺児となったすえは、きりに育てられていたのだが、育児がうまくいかず、結局は梅の兄にあたる作兵衛によって育てられることになったとのことだった。
大坂へ
信繁が大坂へ出立する日となった。三十郎は父親の矢沢頼綱のいる沼田城へ行くようにと、信繁から命じられた。北条氏の沼田攻めがまだ終わっていないためである。
その代わり信繁の世話役には、きりが随行することとなった。きりの父・高梨内記が取り計らっていたのだ。
こうして大坂へと向かった景勝一行は、日本海に沿って進み、加賀に入った。そこで彼らを待っていたのは、秀吉の腹心・石田三成だった。そもそも今回の上洛は、三成の助言によるものだった。秀吉は、臣従を誓った者には領地の安堵として大名としての立場を保証していた。そのため三成は、旧知の兼続を通して、景勝に早期の上洛と秀吉との対面を持ちかけたのだ。
兼続は信繁を三成に紹介するが、三成は信繁を無視するように、今後の予定について話しはじめる。それによれば、景勝一行はこの日は加賀の倶利伽羅峠近くの寺に一泊し、翌朝出立するという。そして京の百万遍の宿所にしばらく滞在したあと、大坂へ案内されるとのことだった。道中は三成が同行することとなった。
その晩に催された宴では、三成と兼続が酒を酌み交わしていたものの、景勝は上座で浮かない顔をしていた。信繁はそこから離れたところでぽつりと膳を前にしており、きりが信繁の相手をしていた。ぼんやりと酒を飲みながら梅のことを考えていた信繁に、きりはなぜ景勝たちの座に信繁が入れてもらえないのかと訝る。そんなきりの言葉を遮ると、信繁はすえの話をしてほしいと促す。きりによれば、すえは日に日にかわいくなって、たまに梅そっくりな顔をするときがあるとのことだった。作兵衛が育てると聞いて、信繁は安心する。
その直後、景勝は急に信繁を庭へ誘うと、自分の気持ちを吐露しはじめる。秀吉の家臣になりたくなかった景勝は、酒にまかせて、迎えにきた三成を斬って越後に戻ろうと戯れ言を弄する。しかし、秀吉に逆らえば大戦になり、上杉氏が滅びるのは目に見えていた。景勝は、謙信が築いた越後の国と民を守らねばならなかったのだ。口では義のために生きると言っておきながら、長いものに巻かれてしまう自分に、景勝は嫌気がさしていた。
そんな景勝は、思いどおりに生きられない世の中を嘆きながら、信繁にはこの世に義があることを示してほしいと託すのだった。
京
まもなく景勝一行が京に入ると、三成はひと足先に大坂へ向かい、信繁は景勝とともに京に滞在することとなった。「上洛」という形式にこだわっていた三成は、景勝をすぐに大坂に下らせるわけにはいかないと考えていた。そういう癖の強い三成を、信繁は不快に思う。
そのとき、石川数正が信繁に対面を求めてきた。家康から口封じのために命を狙われていた数正は、半月前からここに匿われていたのだ。家康と秀吉の間を取り持っていた数正は、ふたりが争うと居場所をなくしていた。そんな折に数正は信繁の叔父・信尹からの誘いに乗ったのだが、家康に対して恩をあだで返したことを後悔し、真田氏への恨みを募らせた。それに対して信繁は、裏切ってしまったのだから仕方ないとして、こう諭す。
「先が読めないのは、みな同じです。だから必死に生きているんです。人を騙したり、裏切ることもあるでしょう。でも、それは善とか悪で計れるものではないと、私は思うのです」
とりあえず先へと踏みだすよう信繁に促された数正は、その後、秀吉の下で信濃松本十万石の大名となった。
やがて景勝たちは大坂城へ赴いた。ところが秀吉への謁見は、当人が多忙のため翌日に日延べされる。景勝と兼続は大坂城内に、信繁は城下の三成邸に滞在することとなり、きりは三成邸の納戸をあてがわれた。
その晩、三成は酔った加藤清正から、関白となった秀吉への愚痴を聞かされていた。信繁はそのようすを、じっとうかがうのだった。
翌日、景勝たちと信繁は大坂城で別々に待たされていた。すると、信繁の前に天真爛漫な娘が現れる。茶々である。彼女は、信繁に矢継ぎ早に話しかけると、秀吉が信繁に会いたがっていたと言い残して去っていく。
この娘は、やがて豊臣秀頼の生母・淀の方となり、信繁の人生に大きく関わってくるのだが、それはまだ先の話である。
その直後、片桐且元によって、信繁は別の部屋へと案内される。片桐によれば信繁が秀吉に謁見できるというのだ。わけがわからず混乱する信繁の前に、ついに秀吉が姿を現した。ところが秀吉は、屏風の裏側に隠れるという怪しい行動に出るのだった。
(続き:第15話)
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