別室に引き揚げた信幸は、気張っていた分だけ疲労困憊している。それにしても、なぜ昌幸は海士淵に城を築こうとしているのか。
「本当の狙いは、恐らく徳川」
信尹の推測に、信繁が同意した。
「海士淵に城を建てれば、北の上杉だけでなく、南からの敵、つまり徳川も防ぐことができます」
真田と徳川は、いずれ対立する日が来る。
「では、徳川と戦うための城を、徳川に造らせるというのか」
信幸には到底まねのできない、昌幸ならではの型破りな発想だった。
夜、家康が酒宴を開いた。
「実は、今宵は、取って置きの趣向がござってな」
家康から真田へ、格別な土産があると言う。正信が隣室とのふすまを開くと、とりが座っている。
信繁が仰天し、信幸も信尹も驚いてとりに駆け寄った。木曽義昌の人質となったとりは、義昌が徳川に臣従した際、今度は徳川の人質となって浜松城に移されていた。とりは血色もよく、忌憚のない物言いも相変わらずだ。
「信幸殿、今や徳川と真田は固い絆で結ばれておる。これを機に、人質をお返ししたい」
家康は温厚そうな顔をし、小声で付け加えた。
「沼田の件、一つよしなに」
沼田死守
沼田城は利根川の近くに位置し、上野支配の要衝だ。真田も譲れないが、関東の統一をもくろむ北条はどうしても欲しい。家康は海士淵に城を造る約束に加え、人質のとりを先に真田の郷に返した。こうしたさじ加減が、徳川の折衝術だ。
「ならば、沼田はひとまず忘れるとしよう」
昌幸は海士淵の城を優先したが、収まらないのが上野の真田領支配を任されている矢沢頼綱だ。
「北条になど死んでも渡すものか」
頼綱は城を死守すると闘志を燃やし、信幸の説得に応じようとしなかった。
昌幸たちが頼綱の説得に手間取っているうちに、家康は沼田の対処を北条に任せてしまった。北条は武力での奪取も辞さないと勇み立ち、沼田城に城の明け渡しを求める使者を送った。ところが、頼綱がいきなり使者を斬り殺してしまった。激高する氏直をなだめ、氏政は不敵に言い放った。
「これで沼田攻めの口実ができた」
ほどなく、北条の激しい攻撃が開始された。頼綱は城の前に打って出て、齢七十に近いとは思えない気迫で戦い、北条勢を城に寄せつけない。
小県では、海士淵に面した上田平で、新しい城の建設が始まっていた。のちの上田城だ。昌幸は内記とともに建築現場に足を運び、作業の進行を見ながら沼田城をどうするか話し合った。
「援軍は送らぬ。ここは叔父上に踏ん張ってもらうしかなかろう」
徳川と北条が和睦した以上、徳川の傘下にいる真田がおおっぴらに北条と戦うわけにはいかない。その一方で、信繁の側近で頼綱の息子の三十郎が、沼田に加勢に行きたいという思いに、昌幸は理解を示した。
「すぐに沼田へ向かえ。そして戦が長引くようなら、叔父上を連れて帰れ」
昌幸としては、この大事な時期に頼綱に死なれては困るのだが、頑固一徹の頼綱は容易には沼田城を諦めないだろう。
「沼田の戦を終わらせるためには、上杉の力を借りるほかない」
もっとも、謀略をめぐらしたあげく裏切った真田に、上杉がおいそれと力を貸してくれるはずがない。
「知恵を働かせよ、源次郎。お前に任せた」
「……はい!」
信繁は、この夜、梅に会いに行った。
「父上に、私が策を練るようにと命じられた」
「ぜひ、またお手柄を。梅はお祈りしております」
梅のけなげさに、信繁は任務へのさらなる意気込みを覚えた。しかも、梅は一人ではないと言う。
「やや子が」
梅が、恥ずかしげに微笑んだ。
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