お待ちくだされ、と、万千代は末席から声を放った。
「まこと通じられていたのならば、わざわざかような者を残し去ることなどございますまい!」
同意を示すかと思った家康が、ご苦労であった、と使いの者に言い、忠勝に向かって大声で命じた。
「瀬名に追っ手を放て。武田に通じる道、信康のおる二俣城に至る道、街道に兵を差し向けよ。捕らえ次第、首をはねるがよい!」
その姿は井伊谷にあった。旅装に包まれた身は細く、生きた者ではないほど儚げに見えた。その佇まいが、赤い唇の間から出る言葉が嘘であることを告げていた。
瀬名「信康の顔を見に行くのです。許されることになったので、出迎えて驚かせてやろうと思うて。ついでに、と、こちらに立ち寄り…」
立ち去ろうとする瀬名の腕を、直虎は強く掴んだ。
直虎「そなたの首をもって、事を収めようと考えておるのか。武田と内通しておったのは息子ではなく己であると、そんなところか。瀬名!」
直後、目の前で刀の切っ先が瞬いた。ハッと見ると、従者とおぼしい男が、後ろ手に瀬名をかばって立っていた。駆け出そうとした瀬名が、すぐに足を止めた。その眼前にも刃があったのだ。
「…お話がございます」
息を荒くさせて立っているのは、万千代だった。
龍潭寺の庫裏で、直虎たちは万千代の話を聞いた。家康は、瀬名が母親の生地を訪れることを見越して、万千代たちにあとを追わせたのだった。
万千代「殿も成り行き上、止めるわけにはいかず、今お二人には追っ手がかかっております。そこで…」
直虎「しばらくの間、井伊にてかくまえということか」
万千代「殿からのお願いにございます」
万千代と交わした視線を、直虎は瀬名に向けた。
直虎「井伊は逃げる隠れるには慣れております。ほとぼりが冷めるまでご案じなく」
従者「ようございましたな、お方様」
従者が笑みをこぼす。表情を変えずに瀬名が言った。
瀬名「殿の策は実るのですか?」
皆、黙り込んだ。必ず実る策など、どこにもない。
瀬名「ならば…やはり私が通じたとしたほうが、信康を間違いなく救い出せるのではないですか?」
そのとおりだった。気を取り直し、直虎は言った。
直虎「あのとき、今川館に閉じ込められた折も、すんでのところで徳川殿の策は実ったではないか。ここはひとつ、徳川殿の運の強さを信じてみぬか?」
瀬名「…ええ、私はあのとき、あそこで死んでおってもおかしくはなかった。ゆえにこそ、その生命は、殿と殿の愛する息子のためにこそ使いたいのです」
瀬名の目は死んでいた。止めることは、もはや誰にもできない。直虎はたまらず、大声で叫んでいた。
「死んでいく奴は皆、さようなことを言う! そりゃあそうじゃ、そちらは死ねば終わりじゃからな!」
何を言っても無駄だ。分かっていながら続けた。
「残される者のことを考えたことはあるか。助けられなんだ者の無念を、考えたことがあるか!」
瀬名が微笑した。
その目から、すっと涙が流れた。
「おいとまいたします。あね様」
透き通るような顔にかける言葉は、もうなかった。
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