数日来、家康は1人で書類に向かっていた。万千代がまとめた一覧表は分かりやすく、元の聞き書きと並べて見ると全体像がつかめた。しかし結論が出せない。浜松と岡崎との釣り合いがどうにもよくないのだ。
「…泣いてもらうしかないか」
その夜、万千代が薬を届けに現れた。多くの薬が種別に分けられ、用い方の書きつけまで添えられている。興味津々となる家康に、万千代が言った。
万千代「念のため、医者にお調べいただければと」
家康「気を回すな。これは井伊から取り寄せた薬であろう。わしは直虎殿には信を置いておる」
退出しようとする万千代を呼び止めると、家康は聞いた。
「そなたなら、こたびの戦、岡崎をどう処遇する?」
驚きを浮かべる万千代に、家康は重ねて言った。
家康「案ずるな。そなたの言うとおりになどせぬ。しかし、そなたは誰が何をしたか、よう知っておろう」
万千代「首を取った、城を攻め落とした。そういう類いの武功で見ると、岡崎は浜松に比べると、大変に寂しい手柄となっておりましたかと」
家康「しかしながら、こたび織田があまたの援軍を寄越したのは岡崎が日頃、織田への心配りを怠らぬからじゃ」
とはいえ、浜松の本軍や国衆、武田からの離反者などに報いれば、岡崎に回す報奨も知行もなくなる。一連の戦には、今川氏真までもが加わっているのだ。
家康「そなた岡崎へ行ってもらえぬか。一つ考えておる仕置きがある。信康の手応えを探ってきてほしいのじゃ」
家康の仕置きとは、ひと月を費やして落とした諏訪原城を、なんと、今川家に与えるというものだった。
万千代「若も奥方様も今川のご縁戚。今川が一家として徳川に根を下ろすことは、必ずやお二人の力、ひいては岡崎の力となろうとの、殿のお考えにございます」
万千代は、一語一語に力を込めて申し述べた。
無論、そうした温情ばかりではない。いまだ武田の支配下にある駿河を切り取っていくには、地の利のある今川勢を手厚く遇しておかねばならぬ。そういう理屈でならば、浜松を納得させることもできよう。そうした冷静な計算も、この仕置きには含まれていた。
「お分かりいただけますでしょうか」
静かな微笑を浮かべ、信康は答えた。
「徳川の先行きのため岡崎はこらえます。しかしながら、あとあとには地味な働きをしておる岡崎の衆にもじかに報いてくださいませと、そうお伝えしてくれ」
いずれ俺は、この人に仕えることになる。直平様という共通の曽祖父を持つ、井伊の血縁者に。おおらかで頼もしく、人の上に立つために生まれてきたような、徳川信康という主に。それを思うと万千代は新たな希望で胸がはち切れるような心地になった。
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