──これでいい。
これで自分の役目を終わりだと思うと、寂しいような、肩の荷が下りたような──。
近藤には恨みなどない。
自分はじきこの世のしがらみとおさらばできるが、近藤はこの先ずっと、戦乱の世の非情な定めに抗えず生きてゆかねばならぬのだと思うと、むしろ哀れなぐらいだ。
牢舎の出入り口のほうで物音がした。見張りが離れて様子を見に行った。
それと同時に、後ろから声がした。
「…行きますぜ」
龍雲丸だった。
直虎は1人、井戸端で政次の戻りを一心に祈っていた。
そこへ昊天がやって来た。
昊天「次郎」
直虎「政次は!? 戻ってきましたか」
暗い表情でうつむいてしまった。
直虎「昊天さん?」
昊天は答えない。
直虎は寺に駆け戻った。
寺には南渓と傑山、龍雲丸、直之が顔をそろえていた。
直虎「政次は? どこじゃ?」
龍雲丸が黙ったまま首を横に振った。
「まさか…政次はもう…」
「いや、生きておる」
困惑している直虎に、南渓が言った。
南渓「本懐ゆえ、戻らぬそうじゃ」
龍雲丸が、牢の中での会話を語り出した。
戻ってきた見張りを吹き矢で眠らせ、政次に声を掛けた。
政次「すまぬが、俺は行かぬ」
龍雲丸「え? なんで…」
政次「近藤がかような企てに出たのは、俺と殿への私怨を晴らそうという意味合いもあろう。殿や俺は逃げればよいかもしれぬ。しかし、恨みが晴れなければ、隠し里や寺、虎松様、民百姓、何をどうされるか分からぬ。そして、井伊にはそれを守りきれるだけの兵はおらぬ」
近藤は、おそらく井伊の者を片っ端から血祭りに挙げるだろう。
政次「俺の首一つで済ますのが、最も血が流れぬ」
龍雲丸「…けど、あんたがいなくなったら、あん人、誰を頼りゃいいんだよ」
政次「和尚様がおるし、そなたもおるではないか」
龍雲丸「ごめんこうむらぁ! 大体、あんたそれでいいのかよ! このままいきゃあ、あんたは井伊を乗っ取ったあげく罪人として裁かれるってことだろ? 悔しくねえのかよ! 井伊のためにって、あんなに誰よりも駆けずり回ってきたのはあんたじゃねえか!」
政次「それこそが小野の本懐だからな」
政次がフッと笑みを浮かべた。
政次「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく、私はこのために生まれてきたのだ」
龍雲丸「…分かんねえわ、俺にゃあ」
政次「分からずともよい」
龍雲丸「何か、尼小僧様に言うことは…」
政次は首を左右に振るだけだった。
龍雲丸の話が終わると、皆、水を打ったように静かになった。
直虎が駆け出そうとした。それを予想していたのか、龍雲丸が腕を掴んだ。
龍雲丸「尼小僧様、もうやめとけ」
直虎「われが話をしてくる。忌み嫌われるために生まれてくるなど、そんなふざけた話があるか!」
龍雲丸「あん人はやりたくてやってんだよ!」
直虎は龍雲丸の腕に噛み付いた。
直虎「お前に何が分かる! 政次は幼いときから家に振り回され、踏み潰され…それの何が本懐じゃ!」
龍雲丸「あの人の井伊ってのはあんたのことなんだよ!あん人なら、井伊をひねり潰すことだってできたはずだ。そうしなかったのは、あん人がそれを選んだからだ!」
直虎が龍雲丸を睨みつける。
龍雲丸「あんたを守ることを選んだのは、あん人だ。だから本懐だって言えんでさ」
結局、自分のせいで政次は死んでしまうのではないか。
直虎「頼んでなどおらぬ。守ってくれなどと頼んだ覚えは一度もない!」
そう叫び、直虎は出ていった。
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