連れて行かれたのは船の上だった。苛立ちが収まらない直虎は、龍雲丸に声をかけた。
「まだ着かぬのか。とろくさい」
龍雲丸は何も答えないまま、碇を投げ下ろした。
そこは湖の真ん中。直虎は狼狽した。
直虎「え? な、何をしておる」
龍雲丸「泣いてもわめいても、誰も助けに来ませんぜ」
そう言うとニタリと笑い、龍雲丸が近付いてきた。
もう逃げ場はない。直虎は水の中に飛び込もうとしたところ、龍雲丸が慌てて声を放った。
龍雲丸「違いまさぁ! 嘘でさぁ!」
直虎「では何ゆえ、かようなところに停めた!」
龍雲丸「ここなんでさぁ。城、ここに造るんでさぁ」
直虎は驚いた。辺りは一面、水しかない。
龍雲丸「潮が引けば、この下は中洲になるんでさぁ」
ここに城を造れば、近づけるのは潮が満ちているときだけ。しかも船を持つ者に限られる。
龍雲丸「潮が引いていても、ぬかるんでて馬は来れねえ。泥田舟がありゃ進めねえこともねぇが、遅えし、大勢で攻め込むなんてこたぁ難しい」
水軍で攻め寄せる手もあるが、湖の周囲は今川方の国衆が囲んでおり、その戦術は考えにくい。
龍雲丸「もし、この世にあったほうがいい城なんてものがあるとすれば、こういうもんなんじゃねえかって思ったんでさぁ」
直虎「捕まらぬための城か」
龍雲丸「根が盗人なもんでね」
直虎「…よいのではないか。実によいと思うぞ」
龍雲丸は笑いながら、碇を上げた。
見上げた空には、雲が浮かんでいる。
直虎「雲も何か城に関わりがあるのか? 以前、空に雲があるから仕官はできぬと」
龍雲丸「…大した話ではねぇんで」
直虎「大したこともない話で井伊は袖にされたのか」
直虎に迫られた龍雲丸は、己の過去を語り始めた。
父親が守っていた城が落ちて逃げ延び、盗賊団に拾われたのだという。
ところが、その一味はお縄になり、ふたたび一人になった。そのとき見た空に、大きな龍雲が出ていたというのだ。
龍雲丸「その雲を見ていて、これから先は、何にも誰にも縛られず、己の心に従って生きてやるんだと決めたんでさぁ。けど、気付いたら、仲間に縛られ、町に縛られ。ざまぁねえでさ。」
直虎「放下着(ほうげじゃく)*じゃな。縛られぬということに縛られておったのじゃな、頭は」
龍雲丸「…説教くせえ」
直虎「尼じゃからの」
煩悩執着はもちろん、仏や悟りまで一切を捨て去れ、という禅語
直虎は、彼がこれまで続けてきた孤独を考えていた。
直虎「頭は心の奥深いところでは、奪われてきたものを取り戻したいと望んでおったのではないか?」
龍雲丸「尼小僧様はいつも俺の考えつかぬことを言う」
大沢からは築城を急げとしか言われていないという。
龍雲丸「ほかの普請も多いんじゃねぇですかね。大沢はいくつも城を持っておるようでしたし」
そのとき、直虎は策を思いついた。
大沢のほうから、手を引きたいと言わせればいい。
「そうすれば、そこに井伊が滑り込める…」
さっそく方久が動いた。
大沢基胤(嶋田久作)と対面し、気賀がどれほど治安が悪い土地であるか説明した。さらに、今回の分裂騒ぎを裏で収めたのは直虎であると話した。
方久「井伊と気賀には、商いを通じて深い誼(よしみ)がございます。それがゆえに収まったようなもの。いきりたち、謀反をと言いだす輩もおったそうにございます」
井伊の民がその気になれば、徳川や武田と通じることは難しくないだろう。そんな危険な土地の足下から火をつけることもないのではないか、と説得した。
方久「お家のために、一つ大沢様の口から井伊をご推挙いただけませぬでしょうか」
この話を聞いて不安に陥った大沢は、今川氏真に目通りしたうえで、井伊への譲渡を申し出た。
大沢「わが大沢家が浜名東岸の守りを固めるためにも、気賀は誼の深い井伊にお任せしていただけぬかと」
方久「井伊も一丸となり、太守様のおんために銭を稼ぎ出そうと思うております」
関口「恐れながら、私もこの者らの申すとおりかと」
氏真は不機嫌になって言った。
「…好きにせよ。どうせ余は能なしじゃ」
ようやく気賀は井伊家が治めることになった。
すぐに城の普請が始まり、年が開けて春になる頃、堀川城という新しい城が完成した。
湖に浮かぶ城を手に入れた直虎。
新たな船出で井伊家を率いていくこととなる。
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