何日か経つと、川名の準備が整ったという知らせが届いた。
井伊の居館や、井伊谷を見渡せる丘の上など、懐かしいところを歩き回って別れを告げた。
最後に、寺の仏殿で御本尊に礼を述べて、自室に戻った。
あとは、遺書を書けば仕上げになる。
次郎は文机に向かい、筆をとった。
机の上に、2つの饅頭が置かれている。
南渓からの公案が頭をよぎった。
「饅頭をカビさせたは伯を選んだのはなぜ…?」
次郎は筆を置き、考え込んだ。
翌朝。待ち合わせ場所に現れた次郎を見て、直親は驚いた。
旅装のはずの次郎が法衣のままで、荷物も何も持っていないからだ。
「直親。おとわは死なぬわ。
直親とわれは、1個の饅頭なのじゃ」
直親にはさっぱり分からない。
2つの饅頭を一度に食べてしまったり、人に与えてしまってはなくなってしまう。
1つを取り置けば、本当に困ったときに食べたり与えたりすることができる。
「還俗するのは、俺と一緒になるときではなく、俺に何かあったときということか。
おとわはそれで良いのか!
娘であることの喜びも捨てて、お家の危機の駒となり、まことにそれでよいのか!」
朝まで考え、悩み抜いた結論だ。覚悟したのだ。
「一度きりの人生と言うたではないか。一生日の目を見ることなどないかもしれぬぞ!」
「それこそ上々であろ?われがカビた饅頭になることこそ、井伊が安泰である証しであろ?」
直親の目から少しずつ光が消えていくのがわかった。
次郎も目をそらし
「…ではな」
と言い、きびすを返した。
その瞬間、背後からきつく抱き締められていた。
「置き去りにしてすまぬ…」
直親の息が頬にかかった。
次郎は喜びで気が遠くなりそうだった。
やはり女でいたい。
そのとき、直親の腕が離れていった。
「葬らねばならぬのは、俺の心だ…」
今川の許しを得たことで、直親は正式に井伊に帰参した。
直盛の養子となり、次は嫁取りが急がれた。
正室の座を空けておくと、直盛のように今川に関わる誰かを押し込まれる可能性があるからだ。
評定の席で、奥山朝利が切り出した。
「前に、わが娘を小野但馬殿の妻として、井伊の家督を継ぐというお話があったかと」
直親は政次をちらりと確認すると、笑顔で答えた。
「井伊のためによろしきお方ならば、喜んで」
直親は、井伊の居館から一里も離れていない祝田村に屋敷を構えた。
そして、朝利の娘・しのを正室として迎えた。
次郎は、その話を風の噂で聞いた。
俗世を離れ、これで本当に次郎法師になったのだと実感したのだった。
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