大河ドラマ真田丸の時代情勢を俯瞰で振り返ります。
関ヶ原の戦後処理~
昌幸・信繁の流罪~
九度山での蟄居生活の全貌を解説していきます。
関ヶ原の戦いで西軍に味方した昌幸・信繁父子は流罪となり、高野山の麓・九度山へ。流刑地で2人はどう生き、どう戦ったのか?
信幸の助命嘆願で、昌幸と信繁は死罪を免れる
徳川家康による関ヶ原合戦の戦後処理は、西軍の大名にとって過酷なものだった。実践には加わらなかったが、総大将に担ぎ上げられた毛利輝元は、安芸など10カ国の128万5千石から、周防・長門の2カ国の36万9千石に大減封され、副将の宇喜多秀家は2年間の逃亡の後、八丈島に流罪、長宗我部盛親、立花宗茂らも所領を没収された。
天正13(1585)年の第一次上田合戦に続き、またしても徳川の大軍を撃退、家康と息子の秀忠に大恥をかかせた昌幸・信繁の真田父子など
所領没収はもちろん、首を刎ね晒し首にしてくれる──
家康はそう固く決意していたが、ここで信幸が「わが武功に代えても」と必死の助命嘆願を始める。嫁の小松殿も父・本多忠勝、重臣・本多正信を巻き込んで後押しした。
それでも家康は決意を変えなかった。信幸はさらに「父の死の前に、某に切腹をお命じください」と頭を下げる。舅の忠勝もただならぬ決意を固めているようだ。さすがの家康もこれには手を焼き、やむなく死罪を免じ、昌幸・信繁父子を高野山への蟄居処分に付したのだ。
この後、信幸は8万8千石加増され、信濃上田領と上野沼田領併せて11万5千石の領主となった。家康は戦前の約束を守ったのである。ただし、諏訪頼水らが接収した上田城はその後、家康の命令で徹底的に破壊され、本丸、二の丸などの堀もすべて埋め立てられた。そのため信幸は上田城下の陣屋に政庁を置いて、上田領を治めた。
九度山蟄居で信繁たちは日々の食料にも苦労する
慶長5(1600)年12月13日。昌幸・信繁父子は上田を後にした。このとき、昌幸は
さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに
と信幸の前で悔し涙を流したという。
昌幸・信繁父子に従った家臣は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、関口角左衛門、青柳清庵ら16人とされるが、このほかにもいたようだ。また随行を許されず、自刃した家臣もいた。
昌幸の妻・山手殿は上田に残ったが、信繁の正妻(後の竹林院)は後に九度山で合流する。信繁の側室も随行した。
一行がまず落ち着いたのは、高野山の麓・細川という地だった。その後、真田家の檀那寺である蓮華定院の口利きで高野山惣分中や文殊院の許しを得て、麓の九度山に屋敷を構えて暮らした。昌幸と信繁は別々に屋敷を構え、家臣にも別宅があった。昌幸の屋敷は道場海東に、信繁の屋敷は堂海東にあったと伝わる。
真田父子の生活は苦しく、家族や家臣の食い扶持を工面するのにも苦労していた。収入源は国元の信之(真田家男子の通字『幸』を捨てて改名。以下、信之)からの仕送りが中心で、このほか信之・信繁の実弟・昌親からの送金、家康から監視役を命じられた紀伊和歌山藩主・浅野幸長の毎年50石の合力(お金)、さらに蓮華定院からの援助もあったようだが、それでも台所は火の車。昌幸は高野山周辺で多額の借金をしていた。頼みの綱は国元の家臣たちからの贈答である。昌幸は上田の家臣宛てにこんな書状を出している。
手元不如意なので毎年の合力を早く送ってほしい。借金の取り立てが厳しく、息子の昌親に40両用立ててもらい、そのうち20両は受け取ったが、残りも早急に届けてほしい。今年の合力も用意でき次第、5両でも6両でも何とか頼む……
また、家臣を江戸へ金策に走らせたり、飛脚を出すこともしばしばで、上田の山手殿も信之に頼み込み、高野山へ届け物をしている。九度山での昌幸の最大の悩みは、いかに生活費を捻出するかだった。
反面、浅野幸長の監視下とはいえ、「真田淵」と呼ばれる吉野川(紀ノ川)の淵での川狩りや近辺の山での山狩りなど、九度山では比較的自由な行動が認められていた。店への出入りも許され、昌幸は伊勢国出身の女性を側室にしていたという。
続き:【史実解説】昌幸の死~豊臣・徳川の対立~信繁の大坂城入城
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