連鎖
あまり時間がない。信幸は居室に取って返し、岩櫃にいる昌幸に宛てて事の次第を簡潔に記す書状をしたためた。その傍らで、信繁はまだ、勝頼の下した決断に納得できずにいる。書状を書き終えた信幸が、庭に向かって「佐助!」と呼びかけ、改めて信繁に向き直った。
「御屋形様は信玄公のご威光を、武田家の名誉を守ることを選んだのだ。それもまた一つの生き方」
庭の暗がりから、音もなく一人の男が現れた。佐助だ。信幸が差し出した書状を受け取り、佐助は素早く去っていった。
翌三月三日の朝。勝頼の一行は新府城を出立し、岩殿城に向かった。小山田一族の茂誠もまた、ひとしきり松との別れを惜しむと、岩殿へと旅立った。
真田家でも、家来たちが手早く旅支度を整えている。勝頼が新府城を出たことは、すぐに周囲に知れ渡るだろう。出立が遅くなればなるほど、岩櫃までの道中で襲ってくるやからが増える。
信幸がいらいらと薫たちをせかしているとき、信繁は丘の上にいて、遠くの道を勝頼の一行が通るのを見送っていた。信繁の思いが通じたのか、勝頼が馬上から顔を上げた。信繁が深々と頭を下げる。静かにうなずいた勝頼の目に涙が光った。
真田家の一行が新府を発ったのはこの日の昼過ぎで、新府から岩櫃まで歩いて三日の行程となる。山道にさしかかり、城下を見下ろすと、昌幸が築城技術の粋を集めた新府城が燃えていた。
勝頼は淡々と馬を進めている。そこに、織田軍の攻撃により諏訪・高島城が陥落したとの知らせが届いた。織田軍を率いるのは信長の嫡男・信忠で、その勢いはとどまることを知らない。
落城や敗北の知らせが届くたび、勝頼の一行から兵が離脱していく。新府を出るときには六百人ほどいた総勢は、いつしか百人を切っていた。
岩殿が近づくと、信茂は迎えの支度をすると勝頼に断りを入れ、茂誠や家来たちを連れて馬を走らせた。その先に笹子峠の関がある。木戸を通り過ぎた信茂は、あとに続く茂誠を振り返った。
「木戸を閉じよ。御屋形様を通してはならぬ」
少しして、勝頼の一行が笹子峠の関に着き、跡部が声を張り上げた。
「御屋形様のご到着である。木戸を開けよ!」
柵の向こうから、茂誠が叫ぶ。
「わがあるじ・小山田信茂、故あって織田方に加勢することになりました」
勝頼の一行に動揺が走った。新府城は燃え、岩殿に入城できないなら、勝頼に行く当てはない。
「……もうよい」
勝頼が馬首を巡らせた。
天正十年というこの年、甲斐の名門・武田家の命運が尽きようとしている。それは一つの時代の終焉であり、甲斐、信濃、上野を舞台に、上杉景勝、北条氏政、徳川家康、そして織田信長ら戦国大名たちかしのぎを削る動乱の始まりでもある。
真田家は、この動乱の中で生き残りを懸けた戦いに挑む。のちに、信幸は徳川家の大名として信濃・松代藩十万石の礎を築く。信繁はその活躍から、真田幸村の名で広くその名を知られることになる。
だが、今は信幸も信繁も盗賊たちに追われ、母や姉たちを守りながら逃げている。戦国という大海原に、「真田丸」という名の一艘の小舟がこぎ出した。波乱万丈の船出である。
(続き:第2話)
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