変事は井伊谷でも起きていた。龍潭寺の門前に建つ松岳院で寝起きしている祐椿尼が、にわかに胸の痛みを訴え、床に伏せってしまったのである。
昊天から容態を聞いた南渓が、ぼそりと呟いた。
「年も年じゃし。天寿と考えてよいのではないかの」
直虎の動揺は大きかった。せめて、親孝行の一つもしたい。母が何より愛したものといえば…花だ。見舞いに来てくれたなつに、直虎は願いを述べた。
直虎「これからは知らぬふりで、世間話をしにでも来てもらえるとありがたい」
いつも花が咲いているように、母の周りに必ず誰かにいてほしい。そんな思いを、なつはすぐに察した。
なつ「あやめ様にもさようにお知らせしておきます。兄から、高瀬様にも中野様にも」
直虎は涙をこらえながら、「かたじけない」とだけ言った。
「く、くせ者! くせ者を捕らえたり!」
夜の陣所に悲鳴混じりの万福の声が響いた。
「各々方、お出会い召されぇ!」
家康をかばってざくりと斬られた肩から鮮血が噴き出している。痛みも感じず、万千代は全力を振り絞って相手の体にのしかかり、己の喉を突こうとしている小刀をもぎ離して寝所の隅へ投げ捨てた。
蒼白な顔をゆがめ、必死でもがく男には見覚えがあった。信康に付き従っていた若武者の武助であった。
騒ぎはほどなく鎮まった。万千代が肩の傷の手当てを受けているところに、榊原康政が入ってきた。
康政「つらいところすまぬが、くせ者の詮議をしておる。あの者のたくらみにどうやって気付いた?」
万千代「薬箱の口金が逆さになっておって。それで誰かが薬箱に触れたのだと」
調べてみると、やはり混ぜ者がしてあった。何者かが、万千代が井伊の薬で殺したということにして、家康を亡きものにしようとしているのは間違いなかった。
そこで万千代は、寝所に戻った家康が薬湯を所望したとき、寝入って目が覚めないふりをした。万福が、代わりに作れる者を探しに行き、じきに戻った。
目を閉じたまま、万千代は薬湯をいれる音を聞いた。
「出来上がりました。どうぞ」
その瞬間、目を開き、相手の手首を掴んで言った。
万千代「そなた、まず毒味をしてみよ」
追い詰められた武助は小刀を出し、家康を襲おうとした。それを万千代が体を張って阻止したのだった。
康政「とにもかくにもご苦労であった。しばし休むがよい」
最後まで聞かず、万千代は眠りに落ちていた。
松岳院で暮らす祐椿尼の周りは、直虎が願ったとおり、人また人で溢れ返っていた。花を習っている高瀬。まくわうりを抱えてやってくる六左衛門と直之。数年前に夫婦となった方久とあやめ。見舞いの品は、多くのつぼみをつけた薔薇だった。
「名は長春。それはそれは艶やかな花がつきますよ」
なつ、そして、しのまでが、しばしば姿を見せた。
「虎松や亥之助は、息災にしておりますか?」
「はい。殿の覚えもめでたく。なんでもこの間、戦場で殿をお守りし、知行一万石を賜ったそうで」
「一万石!?」
何も聞いていなかった直虎は、驚きに腰を抜かした。
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