戦国時代には各地の大名が登用し、活躍した”忍び“。真田家は戦国を代表する忍びの使い手だったようです。大河ドラマ『真田丸』でも多くの忍者が登場していますね。
当時の忍びとは、どんな人だったのでしょう?彼らの任務や活躍した舞台を紐解いてみたいと思います。
忍びの任務は?
忍びがもっとも活躍したのは戦国時代だった。権謀術数の渦巻く時代、国を守り、生き残るためには、迅速で的確な情報が必須だった。その情報収集を担ったのが忍びである。
忍びは、諜報、謀略、撹乱などを役割とする専門集団だった。例えば諜報は実測や実地探索を原則として、敵の城の詳細な地図を描き、馬の頭数や鉄砲などの武具の数を把握し、街道や川などの長さや幅を調べた。重臣の人物像や作物の収穫状況なども重要な情報である。その情報を用いて謀略をめぐらし、その謀略で敵を撹乱し、内通者を作った。
忍びにはさまざまな呼び名がある。
- 透波(すっぱ)
- 乱波(らっぱ)
- 突波(とっぱ)
- 草(くさ)
- 軒猿(のきざる)
- 奸(かまり)
このようにさまざまに呼ばれるが、任務に大きな違いはない。
忍びの出身は?
忍びの出身地は近江の甲賀と伊勢の伊賀が有名だが、紀伊や相模など、忍びの発祥地は全国に散らばっている。甲賀と伊賀が特に有名なのは、彼らが忍びの術に優れていたことに加えて、本拠地が都に近く、中央政府の情報に身近に接していたことが大きい。
徳川家康の家臣となった服部半蔵正成は、伊賀の忍者と言われる。『本能寺の変』が起きたとき、家康が敵の多い伊賀を通って堺から三河へ無事に帰れたのは、正成ら伊賀者の働きのおかげという。
『立川文庫』などの物語の影響で、真田家は忍びと深く結びついていると見られるが、現実にもそう考えられる背景があった。真田家が属する信濃の滋野一族は、山岳信仰や医術、歩き巫女といった芸能などと関係が深かったため、真田家に注がれる目もその影響を受けていたと考えられる。