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【史実解説】大坂夏の陣(冬の陣の和睦~信繁討ち死~大坂城落城)

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引用:news.walkerplus.com

大河ドラマ真田丸の時代情勢を俯瞰で振り返ります。

大坂夏の陣の全貌を解説していきます。
大坂冬の陣はこちらの記事をご覧下さい。

信繁の調略工作に叔父・信尹が乗り出す

大坂冬の陣の和睦交渉が水面下で始まった慶長19(1614)年12月15日の夜、真田信繁は密かに真田丸を抜け出し、叔父の真田壱岐守信尹と会った。信尹は、徳川家康の側近・本多正純に信繁の調略を命じられていた。信尹の介添え役は、真田丸の正面に陣取る前田利常の重臣・本多政重(正純の弟)だ。

信尹が「身の安全は保証する。徳川に味方すれば10万石を与える」
と言うと、信繁はこれに対し、

高野山で不遇を託っていた自分を、秀頼様は召し出され、兵6千と真田丸を預けられた。その大恩があるから徳川に出仕せよと言われても困る。和睦がまとまり、それでも召し出されるのなら5千石でも奉公したい

と答える。

報告を受けた正純は「ならば信濃一国11万石ではどうじゃ」
と言い、信尹が再び信繁と密会、これを伝えると信繁は激怒し、二度と信尹と会おうとしなかった。策を弄する正純に我慢ならなかったのだろう。

和睦の成立後、信繁は徳川方として参陣している甥の真田信吉・信政兄弟の陣所に陣中見舞いに出かけている。信繁は15年ぶりに再会した2人の成長を喜び、酒宴が始まると、旧臣の矢沢頼幸らも顔を出し、昔話に花を咲かせる。

兄・信之は病を押して出府したが、江戸に残留していた。

この頃の親族宛ての手紙も残っている。姉の村松殿の夫・小山田茂誠が祝儀として2尺もの鮭を贈った際の礼状には

急に年寄り、病者となり、歯も抜け、髭も黒いのはあまりありません。もはやお目にかかることはないでしょう

と書いている。

長女・すへの夫・石合十蔵宛ての手紙では
「すへのことは心叶わぬことがあっても、お見捨てなきよう」
と父親らしい気遣いを見せている。

小山田茂誠・之知父子宛ての生前最後の手紙には、戦国武将らしからぬ厭世観すら漂っている。

秀頼様のご寵愛はひとかたならぬものですが、気遣うことばかりです。定めなき浮世ですから一日先のことはわかりませんが、我々のことは浮世に生きているものと思わないでください

と記されている。

そして、旧知の武田遺臣・原隼人佐と再会した際は、信繁は酒を酌み交わしながら、自ら小鼓を打って、息子・大助に曲舞を舞わせた後、床の間の鹿の角をあしらった家宝の兜に目を向け、

最後の合戦ではこの兜をつけて戦死を遂げます。ただ、齢十五の大助が生涯、牢人のまま戦場に散るのが不憫でならない

と言って落涙し、さらに白河原毛の愛馬に六文銭の鞍を置き、ゆっくり乗り回しながら、
「この馬の息の続く限り戦って討ち死にする」
と語ったといわれる。

大坂城では主戦派の牢人衆が主導権を握る

和睦交渉で一番の難題は牢人問題だった。豊臣方は命を懸けて味方した牢人たちを無碍にはできない。徳川方は手強い敵となった彼らを断じて許せない。家康は豊臣方の和睦条件の、牢人たちに扶持すべき知行の加増を拒絶する。

一方で、大坂城の惣構は次々と破壊され、堀も埋め立てられた。工事の担当は惣構、惣堀が徳川方、二の丸、三の丸は豊臣方だったが、豊臣方の工事が遅れると徳川方が加勢して遅れを取り戻す。こうして天下無双の巨城・大坂城は裸城となった。

ところが、牢人の数は一向に減らず、逆に増えていく。武器弾薬も大坂に集められ、牢人たちが京都、大坂で乱暴狼藉を働き始めた。これを見て、徳川方は警戒を強める。

今や大坂城内では

  1. [融和派] 大野治長、七手組、後藤又兵衛ら
  2. [中間派] 明石全登、木村重成、渡辺糺ら
  3. [主戦派] 大野治房、長宗我部盛親、毛利勝永ら

が激しく対立していた。秀頼の信任厚い信繁は[2.中間派]の1人だったが、そんな中、大野治長が襲撃される事件が起きる。治長は命に別状はなかったが、犯人はわからず、実弟・治房が疑われていた。

家康が秀頼に大坂城から大和国郡山に退去せよと勧告すると、主戦派の面々は
「そうなれば自分たちは召し放たれ餓死することになる。ならば徳川と一戦して一矢報いた後、切腹してみせよう」
と言い放った。

信繁突撃隊が徳川本陣に攻撃!家康は死を覚悟する

慶長20(1615)年5月6日早朝、大坂夏の陣が始まった。

豊臣方の西軍は大和口と河内口で徳川方東軍を迎え撃ち、大和口の道明寺合戦では、後藤又兵衛軍が攻勢に出るが、伊達政宗軍の猛攻を受けて又兵衛が討ち死に、援軍に来た薄田兼相も戦死した。

この伊達軍の追撃を後詰の信繁の軍勢が撃退、両者はにらみ合いになるが、折しも河内口の若江・八尾合戦での敗戦の報告と退去命令が届き、信繁は殿を引き受け、大坂へ撤退する。このとき、信繁は

関東勢は百万もいるが、男は一人もいないのか

と豪語したという。

翌7日、西軍は天王寺付近を主戦場と見定め、茶臼山から岡山にかけて7~8万の陣を展開した。東軍に先に手を出させ、信繁らが敵を引き寄せている間に、船場の明石全登軍が迂回して家康本陣を叩く作戦だ。狙うのは家康の首1つ!

午後1時頃、東軍の越前松平軍の銃撃が戦端を開き、これに真田軍の東隣に布陣する毛利勝永軍が応戦、東西両軍が激突した。

毛利軍の奮戦はめざましかった。越前松平軍を撃破し、敵兵が怖気づき大混乱に陥る中、敵陣深く攻め込む。この混乱を縫うように家康本陣に肉迫したのが信繁率いる真田軍だった。家康旗本衆の前に布陣していた本多忠政の軍勢を蹴散らすと、それを見た旗本衆は浮足立ち逃げ出した。家康の馬印も御鑓も倒れると、家康は死を覚悟したという。だが3度に及んだ信繁の波状攻撃も力尽き、ついに家康を討ち取ることはできなかった。

そして日本一の兵・真田信繁は退却中に越前軍と戦い、安居神社の近くで戦死する。

折しも大坂城で火の手が上がる。内通者の放火によるものだが、天守に燃え移ったのは午後4時半頃。その炎は京都からも遠望できたというが、これを機に東西両軍の形勢が逆転、東軍が攻勢に打って出る。頼みの綱の秀頼はついに出馬せず、激戦の最中、秀頼の馬印を背にした大野治長が城に引き揚げたのも、西軍の戦意を喪失させる原因になった。

翌8日、天守下の土蔵に潜んでいた豊臣秀頼と淀殿は自刃した。

大野治長らも殉死するが、その中に信繁の嫡男・大助もいた。大助は大将たる者の切腹は佩楯(はいだて)を取らないのが作法であるからと、佩楯を着けたまま潔く切腹する。その手には生母・竹林院が贈った水晶の数珠が握られていた。

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