大河ドラマ「西郷どん」の序盤で薩摩藩を揺るがす一大事件「お由羅騒動」が描かれます。西郷隆盛の人生に大きな影響を与えたとされる薩摩藩主・島津家のお家騒動「お由羅事件」の真相をまとめます。
[ad#ad-1]「西郷どん」序盤の山場・お由羅騒動の真相とは?
お由羅事件とは、薩摩藩主・島津斉興の正妻・
いまでも相続争いは親族を対立させる大きな原因になりますが、当時薩摩藩の石高は全国185藩中2位であったり、サトウキビの生産や密貿易で裕福な財政を誇ったりと、島津家は大変なお金持ちだったのです。
正妻・弥姫と妾・お由羅 島津家での立場とは
弥姫は鳥取藩主・池田治道と伊達藩主・伊達重村の娘・生姫との間に生まれた由緒正しき「賢婦人」。それに和歌や漢文にも秀でた才女だったらしいのです。
一方、お由羅は江戸の大工の娘という説が一般に伝えられていますが、林真理子の原作小説「西郷どん」では「お玉」と言う名の深川の船宿の娘という設定になっています。
弥姫は正妻なので江戸に住む決まりでしたが、お由羅は妾なので薩摩に住んでも良かったのです。ですから、参勤交代で江戸と薩摩を往復するお殿様島津斉興の傍に居ることが出来たのです。そのため、斉興は次第にお由羅の産んだ久光が可愛くて仕方が無くなるのです。弥姫が若くして亡くなった後、お由羅は徐々に薩摩のお城の中でも権力を握り「御国御前」と呼ばれるほどになっていたのです。
嫡男・斉彬の立場は?
しかし一方、正妻の子・斉彬は母親から素晴らしいDNAを受け継いでいた為なのか?英知に長けて外国語の本を買って読み漁り、優れた西洋文化や最新技術を吸収していたのです。そのため、江戸幕府の老中・阿部正弘も特別に斉彬を重用したと言われています。
ですが、薩摩の国元ではそれを「
むろん斉彬は、薩摩でそんな声があることを承知で大砲を作るための反射炉やガラス工場、西洋式の館なども造り、軍艦までも買う準備を進めていました。なぜなら彼には評判を気にしているほど時間が無かったのです。
それと云うのも、お由羅事件があった1850年には島津斉彬40歳。後継ぎが元服すると家督を譲るのが普通とされていた当時からすると異例中の異例であったらしいのです。
お由羅騒動の真相
1850年1月に突然、薩摩を舞台に藩主斉興名で斉彬を藩主にしようとする藩士ら13人に切腹の命が、そして17人に島流しの沙汰が下ったのです。罪状はお由羅と久光の暗殺を企んだという疑いでした。
お由羅事件が起こった背景には、1年前の1849年1月、薩摩の財政問題を改革してきた調所広郷の江戸での自害という事件がありました。清との密貿易を密告されて老中・阿部正弘から詰問されたことが原因とされています。お由羅派は、斉彬が薩摩にいる藩士たちから情報を受け密告したとして、斉彬派の中核武士を復讐のために一挙に消し去ろうとした騒動がお由羅騒動だったのです。
これには、阿部正弘も容易ならない事態と判断し、斉興に家督を斉彬に譲るように迫ります。結局、お由羅騒動の顛末として1851年に従三位の位と引き換えに斉興は家督を斉彬に譲ったのでした。
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お由羅が斉彬を呪詛?
お由羅事件をめぐる逸話として伝えられるのが、お由羅が修験者に頼んで斉彬とその息子を呪い殺そうとしたという
科学的根拠はない話なのですが、その後斉彬の息子2人が急逝し、結局7人のうち5人が次々と亡くなったのです。これには斉彬も噂の真偽を確かめるように指示、命を受けた斉彬の信奉者たちは逆に、高名な僧侶の力を借りてお由羅を呪い殺す作戦に出たのです。
お由羅の産んだ男子も2人薩摩で死んでいます。
まとめ
お由羅のキャスティングが何故に小柳ルミ子なのか疑問を持つ人もいると思いますが、実は小柳ルミ子には霊感の持ち主だという評判があるのです。自分でも「心霊体験」をした経験があるとトーク番組で言っています。それが、プロデューサーの頭の中でお由羅の呪詛にぴったりとハマったらしいのです。
きっと石橋正高のホンネを見抜いたのも大澄賢也の浮気を透視して1億円の慰謝料をせしめたのもその霊感だったのですね。
まさしく最高のキャスティングではないでしょうか。