裏切り
それから間もない二月二十五日。梅雪が織田に寝返った。梅雪は以前から織田・徳川と内通していて、人質となっていた家族をひそかに脱出させたうえでの用意周到に計画された裏切りだった。梅雪は離反したばかりか、徳川が武田領内に侵入するよう手引した。さらには御一門衆筆頭として武田の兵力、軍略などを知る立場にあったため、その一切が織田方に筒抜けになってしまった。
こうした事態に、勝頼は急遽新府城に昌幸、小山田信茂、跡部勝資ら重臣たちを招集し軍議を開いた。跡部が籠城を主張し、信茂が華々しく討ち死にしようと訴えると、昌幸がずいと膝を進めた。
「お待ちください。まだこの戦、負けと決まったわけではございませぬ。御屋形様、ぜひわが岩櫃城へお越しくださりませ」
岩櫃城は上野・吾妻郡に築かれた山城であり、勝頼に本拠の甲斐から撤退を促す思い切った進言だ。跡部や信茂は物言いをつけるが、昌幸は最後まで望みを捨てなければ道は開けると力説した。
「岩櫃の守りは、この昌幸がすでに整え、鉄壁でございます。加えて東は、沼田城を弟の信尹が守り、西の戸石城を嫡男・信幸に守らせれば、信濃と上野を結ぶ道筋そのものが、巨大な要害となりまする」
岩櫃で力を蓄え、再起を図ろうと懸命に説得する昌幸に、勝頼の気持ちが傾いていく。
「……分かった。岩櫃へ行こう」
信幸は廊下に控えていて、昌幸の熱意に感動すら覚えていた。
翌朝、昌幸は真田屋敷を出立し、上野に向かった。岩櫃城に勝頼を迎える支度をするためだ。
新府城では、勝頼を上野に行かせまいとして、信茂と跡部が根拠のない理由を並べ立てていた。
「真田はあくまで信玄公の家来であって、武田家代々の家臣にあらず」
さらに跡部は裏で北条とつながっていると真田への不信をあおり、信茂がここぞと申し立てる。
「御屋形様には、わが岩殿城にお入りいただきます」
跡部と信茂から、信玄の威光をとどめる甲斐の地を見捨てるべきではないといさめられ、勝頼は苦悩の色を浮かべた。
この夜、勝頼は人目を忍んで真田屋敷に信幸を訪ね、甲斐を捨てることはできないと打ち明けた。
「わしが向かうのは岩殿城じゃ。岩櫃ではない。わしは、明日、発つ。だが、お前たちは、わしに従うことはない。岩櫃へ向かえ」
勝頼は、武田の人質を免ずる証文を信幸に差し出した。また茂誠に嫁いだ松も岩櫃に連れていくようにと細やかな気遣いを見せ、勝頼の一存で小山田家の人質を解いた。そればかりか、勝頼の手勢百人ほどを道中の護衛につけてくれると言う。
「武田家を思う、安房守の言葉に嘘はなかったと、わしは信じておる。わが父・信玄への忠義、決して忘れはせぬ」
勝頼が帰ろうとして立ち上がると、隅に控えていた信繁は、立場を忘れて呼びかけた。
「信玄公はもうこの世にはおられません!お考え直しください。やはり岩櫃へ参りましょう」
勝頼はゆっくりと振り返り、信繁をしばし見つめると、笑みを浮かべて歩き出した。その足を止めたのは、今度は信幸だった。
「われらからも御屋形様へはなむけを差し上げます。御屋形様のお手勢百、どうぞ岩殿へお連れください。御屋形様はまさしく真田の旗印。生き延びていただくことこそが、真田の再起の道。御屋形様を守る者を減らすのはわれらの思いに背きまする」
「お主たちだけで、大丈夫か?」
逡巡する勝頼に、信繁が思わず口を挟んだ。
「真田安房守の子たるわれら兄弟。そうやすやすとは討たれませぬ」
「真田……よき一族じゃ」
勝頼がつぶやき、去っていった。
信幸がため息をついた。
「御屋形様は、お優しいお方だな」
「優しくて、そして……悲しいお方です」
信繁は、力になれないのがもどかしい。
翌日には、新府城に火が放たれるという。信幸と信繁はすぐに薫ととりに会い、勝頼によって人質を免ぜられたことと、真田だけで岩櫃にいくことになったと打ち明けた。勝頼が同行しなくなったために、護衛の兵がいない。
「どこに織田方の軍勢がいるか分かりません。野盗もいるだろうし、百姓たちが落ち武者を襲うという話もございます」
「私たちは落ち武者ではありません!」
薫は公家の出身で誇り高いが、武田の威光が失われようとしている今、道中、何が起きるか分からない。信幸に覚悟を促されただけで、気鬱になってしまった。
「また一家そろって暮らす日も、そう遠くないということですよ、母上!」
信繁が嘘も方便とばかり安請け合いすると、薫はようやく重い腰を上げた。
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