2017年の大河ドラマのタイトルは「おんな城主 直虎」。
女性の城主であったり、女性でありながらも戦国時代に活躍した人物は、実は何人もいました。
江戸時代の「武家諸法度」で禁止されるまで、女性のリーダーはそれほど珍しいことではなく、男性顔負けの活躍をしているケースもあります。
なにをもって「女城主」とするかの定義はさまざまですが、今回は当主として領地を治めた女性領主のほか、夫の留守を預かって城を守り抜いた臨時的な城主、甲冑を身にまとって戦場で采配をふるった指導者的な女丈夫、領国の政務を陰で操っていた黒幕的な女傑などを含めてご紹介します。
立花誾千代
立花誾千代(たちばな ぎんちよ) [1569~1602]
女城主として有名なのが立花誾千代。
某ゲームで有名になったので、ご存知の方も多いかもしれませんね。
立花誾千代は、立花道雪(戸次鑑連)の一人娘です。
立花道雪とは、豊前~筑前の大名・大友宗麟の重臣として活躍した武将。
高齢の立花道雪から男子同然の教育を受け、主君である大友宗麟の許可を得て、わずか7歳で家督を譲られ正式に立花山城主となりました。
立花山城は、福岡県新宮町、久山町、福岡市東区にまたがる立花山の山頂にありました。
現在でいう博多の街を一望できる、軍事拠点となる山城です。
大友宗麟の家臣・高橋紹運の長男・宗茂を婿養子に迎え、立花宗茂の正室となります。
武芸に秀でた立花誾千代は、夫とはライバル関係となり、豊臣秀吉の命令で立花宗茂が柳川城へ移ると、立花山城の明け渡しに反対して別居します。
関ヶ原の戦いで加藤清正が開城を説得すべく柳川城へ向かった際、立花誾千代の勢力圏を通過することをおそれ、やむなく迂回したという逸話もあります。
おつやの方
おつやの方(おつやのかた) [?~1575]
織田信長の叔母にあたる人物で、「お直の方」「岩村殿」とも称します。
岩村城(岐阜県恵那市)の城主・遠山景任に正室として嫁ぎ、子がないまま夫が病没しました。
すると、織田信長は幼い五男の御坊丸(のちの織田勝長)を養子として送り込み、おつやの方を新たな城主としたのです。
しかし、武田信玄の家臣・秋山虎繁(信友)に攻められると、おつやの方は和議のため、熟女ながら秋山虎繁に求められて再婚し、武田方に寝返ってしまいました。
のちに織田方に降伏した際、信長自身の手によって斬り殺されたといわれています。
寿桂尼
寿桂尼(じゅけいに) [?~1568]
公家の中御門宣胤の娘で、今川氏親の正室です。
晩年の今川氏親は病気で動けず、分国法『今川仮名目録』は寿桂尼の補佐によって作成されたといわれています。
夫の死後は、まだ幼い嫡男・今川氏輝に代わって政治的手腕を発揮し、氏輝の急死にともなって起きた家督争い「花倉の乱」では、自身の子である今川義元を勝利に導きました。
義元が桶狭間の戦いで敗死すると、家督を継いだ氏真を補佐しますが、臣下の相次ぐ離反によって家勢は衰退します。
寿桂尼がこの世を去った翌年に今川氏が滅んだことからも、その影響力の大きさがわかります。
義姫
義姫(よしひめ) [1548~1623]
伊達政宗の母で、号は保春院です。
最上義光の妹であり、激しい気性と恵まれた体格から2度も戦場へ参じた鬼姫として知られています。
夫・伊達輝宗が非業の死を遂げると、伊達政宗が家督を継ぎますが、義姫はその母として伊達氏の家中で影響力を強めました。
伊達氏と最上氏が争った大崎合戦では、兄・最上義光と子・伊達政宗の陣のあいだに輿で乗りつけて合戦を止めさせたほどです。
小田原征伐で豊臣秀吉のもとへ参陣する伊達政宗を毒殺しようとしたため、溺愛する次男の小次郎を伊達政宗に殺害され、山形の兄のもとへ出奔したといわれています。
妙印尼
妙印尼(みょういんに) [1514~1594]
金山城(群馬県太田市)の城主・由良国繁の母で、俗名は輝子です。
北条氏の侵攻を受けた際、茶会を口実に由良国繁たちを小田原城に捕らえられた71歳の妙印尼は、当主不在という状況のなか、城主として籠城戦を指揮し、北条軍を撃破して和睦にまでこぎつけました。
77歳のときの小田原征伐では、由良国繁が北条方の小田原城に籠城する一方で、妙印尼は息子を敵に回す決断をして豊臣方に参陣。
前田利家の軍に加勢した妙印尼の軍功のおかげで、戦後に由良国繁は牛久(茨城県牛久市)への国替えだけで罪を許されます。