6月1日、信長の使者が現れ、にこやかに告げた。
「お待たせいたしました。わが主人より、明日、京に参るようにとの知らせが参りました」
光秀が謀反を諦めたとなれば、京に行けば、信長の策どおり、皆が討たれることになる。
そわそわと腰を浮かせる一同の中で、家康がゆっくりと口を開いた。
「そもそも織田様がわれらを殺すという策などはないのではないか?」
「…ただわれらを招いただけ。その機を利用し、織田様を殺せると思うた明智がわれらに『殺すつもりだ』と囁いたということにございますか」
「うむ。ゆえに、明智殿が諦め、中国へ向こうてしもうたのならば、われらは京で茶を頂いて終わるのではないか?」
確たる理由はなかった。が、安土城で接した信長からは、殺意も殺気も感じられなかった。もてなしておき、京まで呼んでから討つというのも信長らしくない。殺す機会など、安土でいくらでもあったはずだ。
みずからを信じ、6月2日の早朝、家康は一同とともに堺を離れ、京へ向かった。
そしてその途中──。
「今朝方、本能寺は明智に急襲されましてございます!」
行き合った常慶が、一行に知らせたのであった。
「…そうか。やられたのか。織田、様は」
「二条城には織田様ご嫡男がおられ、京ではすでに戦が始まっております」
こうなれば、戦火に巻き込まれぬよう、一刻も早く逃げるしか道はない。家康一行は陸路をたどり、翌日には伊賀の山越えを経て、伊賀の浜から船に乗った。そして早くも翌々日には、三河の地に達していた。
信じられない出来事はなおも続いた。中国で毛利攻めに苦慮していたはずの秀吉が、和議を結んで姫路に馳せ帰り、光秀討伐ののろしを上げたというのである。
これは、ますますどうなるか分からぬ…。
家康は目を閉じ、腕を組んだ。巨大な織田領国は夢のように消え失せ、日の本全土が権力の空白状態となっていた。妻と息子を殺させた、悪鬼のごとき男の顔を、家康は奇妙な懐かしさとともに思い出した。
[次回] 最終回・第50話「石を継ぐ者」あらすじとネタバレ
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