政直の話も確認する必要があると考えた次郎は、その足で小野の屋敷に向かった。
前置きもせず、聞きたいことをずばり切り込んだ。
「和泉守殿。佐名叔母上を人質にするよう進言したのは、そなたなのですか?」
政直は当時のことを語りだした。
当時、今川は北条と争っていた。今川を挟み撃ちにしてほしい、という北条の誘いに、直平は乗ろうとしていた。
それを知った今川義元は激怒した。
そこで、事を収めるには佐名様を差し出すのが一番だと考えついたのだという。格別の美しさであったし、井伊にとって痛手も少ない。
おなご一人を差し出すだけで義元の怒りが鎮まるなら、これほどの手打ちはないだろうと考えたのだ。
政直は、あくまで井伊のためを思ってやったことだと語った。
次郎は、以前に南渓から聞いた話を語った。
1本の旗が揺れているのを見て、ある者は旗が振られているといい、ある者は風で揺れているという。
物事というのは、見る者の心によって変わるものだ、という話だ。
政直の目には涙が見えた。
次郎はほっとするものを感じた。
次郎が帰ると、政直は何事もなかったように、布団の上であぐらをかいていた。
「まさか、偽りでございましたのか」
政次が問うた。
「お前はわしを卑しいと思っておるじゃろ。嘘つきの裏切り者、己はこうはならぬと、ずっとわしを蔑んでおる」
図星だった。政次は父親を強い眼差しで見た。
「だがな、言うておく。お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ」
これが遺言となった。
それからまもなく、政直は息を引き取った。
武田・北条・今川は、三国同盟の締結により、それぞれ領土拡大に取り掛かった。
武田は南信濃に攻勢をかけた。
「ついにこの時が来た!亀を呼び戻すぞ!」
次郎の顔を見るなり、直平が大声で言った。
次郎は目を見開いたまま動けなくなった。
まだ生きていたのか?それも信濃で…?
戦火を逃れるために信濃を離れるという筋書きにしてはどうか、と直盛が言った。
次郎はしばらく心が揺れていた。
亀はどんな男に成長したのか。どんな顔、声をしているのか。
背はどのくらいになっているのか。
そんなことばかり考えていた。
次郎は毎日経を読み、座禅に打ち込んだが、ふと気付くと亀之丞のことを考えてしまう。
「煩悩というのは…なんと恐ろしいのか…」
次郎は山ごもりをした。何日も滝行をして、ようやく落ち着いた気がした。
寺に戻ると、背が高い若い男の姿があった。
亀之丞だった。
「おとわ、井戸はこんなに小さかったかの」
涸れ井戸を覗き込んで、亀之丞が言った。
井戸は変わらない。亀が大きくなったのだと、次郎は返した。
次郎の心は前より激しく乱れていた。
次郎法師のことは、南渓和尚との便りで知っていたという。
「這いつくばってでも井伊に戻ろうと思っておった」
次郎は、胸の高鳴りを抑えきれない。
亀之丞は、次郎を強く見つめて続けた。
「俺はおとわと一緒になるつもりじゃ」
その言葉を心のどこかでずっと待ち望んでいたことに、次郎は初めて気付かされていた。
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