直盛たちの居館の近くに龍潭寺という井伊家の菩提寺がある。
直盛の叔父にあたる南渓が住職を務める禅寺だ。
とわが文武を学んでいるのもこのお寺である。
武術全般を教えるのは傑山、学問は昊天。2人の若い僧侶だ。
この龍潭寺にある井戸には言い伝えが残っている。
ある日、井戸に赤子が捨てられているのを近くの八幡宮の神主が見つけた。
これはただならぬ子だということで、拾って育てた。
その子が長じて井伊谷の井伊家を開いたのだと伝わっている。
南渓が問いかけた。
「井戸の中に投げ込まれては赤子は死んでしまうはずなのに、なぜご初代様は生きておられたのか不思議じゃ」
すると、亀之丞が足元の石を拾い、井戸に投げ込んで言った。
「涸れておる。涸れ井戸だったからではないか?」
鶴丸も続いて
「井戸端に捨てられておったのを、井戸の中ということにしたのかもしれないな」
そう言った直後、亀之丞は体調が悪くなりしゃがみ込んだ。
鶴丸が亀之丞をおぶって、とわと一緒に直満の屋敷に駆け込んだ。
横になった亀之丞に付き添っていると、直満が現れた。
「2人はな、夫婦約束をすることになった。今日の評定で決まったのだ。亀之丞は姫の婿となり、井伊の当主になるのだ!」
亀之丞はだじろぎ、とわは声を失っていた。
とわは急いで館に戻り、直盛に詰め寄った。
さっき跡を継ぐか?と仰せになったばかりではないか。
直盛は口ごもってしまったが、母の千賀が口を開いた。
「おなご1人で家を継げるわけがないでしょう。仮にあなたがご領主様になろうが、誰かと夫婦になることには変わりませぬ」
あの心優しい亀と夫婦になる…とわは甘い感覚を覚えた。
遠くに嫁ぐのではない、この家でこれまでどおりに暮らせるのだ。
おっしゃるとおりですと答えると、直盛がほっとした顔で
「よいのじゃな」
と念を押した。
「はい!おなごに二言はございませぬ!」
その日、とわは龍潭寺に足を運んでいた。亀之丞と鶴丸が庭で武術を習っているようだ。
とわは亀之丞と顔を合わせるのが照れくさいので、離れたところで見守っていると南渓がやってきた。
「亀が張り切っとるのう」
「張り切りすぎて熱が出なければいいのですが」
とわが答えると、南渓はにやにや笑いながら
「もう亭主の心配か?」
と言った。2人の婚約話はすでに広まっているようだ。
とわは最近気になっていたことを南渓に尋ねてみた。
「われの身の回りで不思議なことが起こっているのです」
川に飛び込んで方向がわからなくなったとき、何かが導くような声が聞こえた。
心当たりのない馬の飼い葉が置かれていたこともある。
すると南渓は、それは竜宮小僧のしわざだという。
竜宮小僧とは、いつの間にか田畑に苗を植えてくれたり、洗濯物を取り込んだりしてくれるという伝説の生物だ。
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